隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

募金は偽善か?

募金は偽善、とわたしがのたまっていた記事に、批判的なコメントがつきました。

これは、あくまで「わたしがそうおもう」ということに過ぎないから、ご立腹には当たらないというのはコメントしたとおりです。自分のなしていることが善いことだと思うなら、たとえ誰からそしられようともそれを貫けばよいことです。マザーテレサなら「お前は偽善者だ」といっても、おそらくは「自分は善人と呼ばれたくてこのようなことをしているわけではない」とおっしゃったことでしょう。

ただ、私の基準で考えると「街で箱を受けている人に、100円恵んでやる」という行為を善だとは思えません。もっと言えば、その100円がどう使われたのか、そのことにすら頓着せずただ「100円を箱に放り込んだ」という自分の行為に自己満足し「善」を為したという風に悦に入る人に対しては、嫌悪感を抱かずに入られません。
「確かに自分の行為が世界を救った」と言い張るのであれば、その顛末を追求する必要があるでしょうが、ほとんどの人はそれをしていません。実際、赤十字などでも実際に募金に使われるのは1割程度(しかもこれは数ある募金の中ではかなり割合の高いほう)だそうです。

では、私はどのようなものが善で、どのようなものを偽善と考えているのか。今回のことはこれを考えるきっかけになりました。

そのときに目に入ったのが「マイクロクレジット」という言葉でした。このような仕組みが、募金などの「してやる」という仕組みから脱却したシステムであるといえるかもしれません。違いは、募金は「ただお金をあげているに過ぎない」こと。マイクロクレジットでは「知恵を絞っている」こと。

うまくはいえないのですが、必要なのは「変えようとすること」なのだと思います。「変えようとする」ためには、知恵が必要です。
知恵を絞らず、ただ箱にお金を投げ入れるだけで変わるほど、世界は甘くはありませんし、そんなことみんな分かっているはずなんですよね。でも、自分のやっていることが「偽善だ」と真っ向から言われると反発してしまうのです。
そのような心は「弱い善意思」とでも呼びましょうか。「プチ善」、みたいな。このあたりが、ホワイトバンドのような詐欺まがいの行為に取り入られる隙を与えているということを、もっと自覚すべきではないのかと私は思うのですよね。