隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

モラルとは

先日、良識派陸マイラーというエントリを書いたときに、何人かの方から(匿名の方が多かったので正確に何人かはわかりませんが)批判的なコメントがつきました。

その多くのコメントの根底に潜んでいるのが「お前だってモラルなんてないじゃないか」「偉そうに人のことを批判するな」といったものでした。
面白いのは、これらのコメントがこの方々に「インモラル(モラルがないの意)な行為をしている」という自覚があるということの吐露である、という点です。

もともとのエントリの意図は「あまり無茶なことをせず、共存共栄でいきましょうよ」というものだったのですが、なぜかその点を離れて「モラルのある行動をするか」「モラルのない行動をするか」という方向に話が行ってしまいました。

「おまえ、モラル族か?それとも、インモラル族か?」ってな感じですね。

「モラルのないもの同士仲良くしましょう」とコメントした人がいましたが、この一言がまさにこれをあらわしています。

私だってたまにはモラルのない行動をすることがあります。しかし「モラルのある人間」「良識的な行動」を指向しています。この間には、まったく矛盾はありません。
今まで、一度でもモラルのないことをしたことがある人間は、モラルを指向してはいけないでしょうか?そんなことはないはずです。大事なのは、自覚することです。すぐに変われはしないでしょうが、自分に悪い点があると認識し、少しずつでも理想に近づいてゆくべきでしょう。
どうも、日本人には「毒を食らわば皿まで」的なステレオタイプの思考の方が多く、人間を「モラルのある人間」「モラルのない人間」の2極に分け、そのどちらかに所属していなければならないと考える、思考に柔軟性のない人が多いように感じます。
そういう人は「だいぶつだってモラルのないことをしている」(まいぺ年会費節約とか、NHK不払いとか?不払いはモラルないというのと意味が違うとは思うが)⇒「だいぶつはインモラル族」⇒「文句言う資格なし」という、短絡的な指向に陥っているのでしょう。

ただ、モラルというものは本来自身の目標として設定すべきものであり、それを他人に強要すべき性質のものではありません。その点において、先のエントリではモラルを他人に強いているような印象を与えてしまった点に関しては、私自身も反省しています(ただ、みんなで共存共栄するためには、みながそういう意識を持つのが理想であるとの認識に、変わりはないですが)。

先のエントリの意図は、「そういう行為」を行なっている人たちに、それが「インモラル」な行為であると言う認識をまず持ってもらうことを目的として書きました。
コメントをした何人かの方々は気づいていなかったようですが、その本来の目的は達成されているようで、それなりの意味はあったのではないかと思います。

自覚した上で、モラルのないことをし続けるのであれば、それは自分の心が傷つく結果となるだけなのですけど、これらの方々は、死ぬまでにそれに気づけるかどうか。気づけることを祈るばかりです。

俺は本当に悪いことだなんて思っていない、と言い張る人もいるでしょうが、心の中では気づいているはずです。