隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

【統合医療】「代替医療」が叩かれるのは必然

代替医療は、なぜ叩かれるのでしょうか。

と言うことを大真面目に考えて、出た結論は「代替医療」という言葉が存在するからというものです。言葉があれば叩きやすいのです。
Appleの創始者、スティーブ・ジョブズ氏が逝去した際も、彼が「代替医療」を受けていた、と言うことのみが喧伝されたものです。実際に、彼がどのような医療類似行為を受けていたのかを知っている人が、はたして「代替医療を受けていたことを彼が後悔していた」などと言うことを書いていた人の中にいったい何人いたでしょうか?

うがった見方をするならば、「正統医療」で利益を得ている人たちが、自分たち以外の医療類似行為を排除するために「代替医療」という言葉を作った、と言うような見方もできるでしょう。ジョブズ氏の逝去の際の、私から見れば意図的な情報操作としか思えない「つぶやき」なども、いわばジョブズ氏の死を利用して「自分たち以外が医療類似行為でお金儲けをすることを防ごう」と言う勢力の表れと見ることが出来るでしょう。

ちょうど、日本で室町時代に、大衆を救済するための「大乗仏教」と言う言葉が作られ、それまでの大衆を救済しない、自分さえ救済されればそれでよいという「旧い」仏教を「小乗仏教」(ちょっとの人しか乗れないと言う意味)と揶揄したのと、似ているかもしれません。

まあ、その真偽は私にとってはどうでもいいのです。問題は「代替医療」という言葉では叩かれるので、「統合医療」という言葉に乗り換えようと言う向きです。個人的には、このような医療者を信用しません。
愚直に、叩かれようとも、「中国整体」「カイロプラクティック」「ホメオパシー」「アロマテラピー」と、自分の信ずる療法に邁進している人の方が、むしろ信用できると私は思います。

私自身、心と体が別物であると考えていたのはいつのことだったでしょうか。
心と体は、「心身」と言うコインの裏表の関係だったのです。この当たり前の事実に、私は最近気づきました。と言うのは多分嘘で、ずいぶん前から知っていた気がします。
心と体を分けて扱うより、「心身」と言う一体のものとしてとらえた方が、的確な治療を導くことが可能となるケースがあります。

たとえば、意識呼吸のすすめ―現代医療の軌道修正をめざしてに書かれていましたが、胃潰瘍の患者を外科手術して胃を取りだしたとします。その時は治りますが、また胃が再生してきてそしてすぐに胃潰瘍になります。

この患者の場合、単に無茶な食習慣、ストレスフルな日常、それを改めさえすれば胃潰瘍になることすら最初からなかったのです。これが「心」面からのアプローチです。心身は一体ですので、「心」面からだけのアプローチでも、「体」面からのアプローチだけでも、不十分なのです。

プラセボ効果を否定的なもののようにとらえたり、プラセボと効果に差がないことを「効果がない」と(論理的に矛盾した)ことを言ったりする人は、「心身」のうち「心」の面をまったく見落としている、と言えます。

私にとっての「代替医療」と言うのは、この得体のしれない「心」の方面からのアプローチを補うものとして、統合医療(一枚のコインを二枚の別のコインとしてではなく、一枚として扱う本来の医療)にとってなくてはならないものであると言えます。

いわば、医療と言うコインの表面が正統医療なら裏面が代替医療、と言ういい方も可能でしょう。表面に張り付いている側からは背の側は見えませんので、「この世にそんなものはない」と言う方向に走りがちです。

この誤謬から脱却するためには、まずコインの面に張り付いている自分を見直す必要があります。
そうなったときに、体も心もない、正統医療も代替医療もない、病気も健康もない、生も死もない、静かな境地にたどり着けるのだと思います。

何かにこだわっている以上何かを否定せずにはいられない。代替医療は、正統医療のスケープゴートに選ばれてしまった以上、叩かれずにはいられない。あるいは、叩くためにそういうものが作り出された。

そういうことなのだと思います。
論理的にまったくおかしなことを書いている気もしますが、そもそも論理で表現しきれるかどうか、仮に可能であっても私には難しいと思いますので、お許しください。