隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

「カイジ」にみる発想の転換

最近、何でもかんでも「反対」すればそれでいいというような風潮が蔓延していて、そのままでは日本がやばいなぁと感じています。
たとえば政権を取る前の民主党にしても、官僚主導に反対してみたり天下りに反対してみたりして政権を取ったわけですが、こういう政党が政権を取っても大したことができないということが、民主党が政権を取ってみてはじめて日本国民全体のコンセンサスとなりました。
実は私は、このことこそが民主党がなし得た大きな功績だと思っています。それまで、自民政治ではズブズブになっていて分かりにくかった政治と官僚の関係があからさまになり、それを声高に叫んだ民主党ですらそれを改革し得ないということが国民の大半にわかり、いつまでも平和ボケしていてはいけないということがコンセンサスとなり、自民政治の頃であれば単なる暴言扱いしかされなかったであろう石原都知事の「天罰」発言にすら理解を示す風潮が一般的となったことは、日本国民の進歩と言っていいと思います。まあ、民主党にしてみれば、あまり光栄な功績とは言えないでしょうが(笑)。

まあ、そういったことを、今日は私の好きな漫画「カイジ」(福本伸行作)にからめて書いてみたいと思います。あることに対して、間違っている、イカサマだ、ということを発見した場合、平和ボケした人の場合、それを告発しようとするのが一般的です。
相手がイカサマをしていたら、「それはイカサマだ、やめろ!」という。それが一般的な考え方でしょう。しかし、「カイジ」をはじめとする福本作品では、決してそのようなことは行われません。また、仮に行われても、その告発はおおむね意味をなさない結果となります。

たとえば、カイジでは「チンチロリン」というサイコロ賭博で、敵側が「4・5・6」しか出ない「ジゴロサイ」というイカサマサイを、ここぞというところで使うというイカサマをして、カイジは最初散々巻き上げられます。
途中、さすがにカイジもこのイカサマに気づきます。そして、一旦はこれを告発しようと考えます。しかし、これは意味をなさないことにすぐ気付きます。
仮に現場でイカサマサイを抑えたとしても、「いま始めて使った」と言われたらどうでしょう?それまでの勝ちは「普通のサイコロで勝ったものだ」と主張されたらどうでしょう?
そう、イカサマサイを抑えたところで、その一回分の負けしかまぬがれないのです。いままで巻き上げられたものを、巻き返すことはできません。また、その後イカサマサイの使用をやめるという保証はありません。注意深く使い続ける可能性の方が高いでしょう。

福本作品で、こういう相手のイカサマに対して対応する手段は、常に「裏を取る」。こちらの有利な点は「相手のイカサマにこちらが気づいていることに相手がまだ気づいていない点」。「これが相手にばれたらすべてが終わる」。このたった一つの優位を利用し、相手を完璧に打ちのめす方法をカイジは考えます。
そして、考えついたのが「同じくイカサマサイを作る」という方法です。そして、それを「相手のイカサマをを告発した時点で使用する」ことを考えます。その時点では、「それがイカサマサイであるということが相手にわかっているが、相手は降ることを認めざるを得ない」という状況にあります。

チンチロリンの最強の役はゾロ目。3つのサイコロが全部同じなのが強いのです。その中でも「1」が三つ揃う「ピンゾロ」が最強で、設定等にもよりますが漫画の中では通常の6倍の点数が付与されたように覚えています。
そして作られたのが、「1」しか出ないサイコロ3つ。名付けて「ピンゾロサイ」というイカサマサイです。このサイコロ、通常のイカサマに使うのにはあまり優れているとは言えません。「4・5・6」しか出ない「ジゴロサイ」は、ぱっと見ばれにくいので利用価値があるのです。
しかし、この場合相手のイカサマの裏を取る前提なので、ばれてもいいわけです。

ここで言いたいのは、もっとイカサマしよう!なんてことではもちろんなく、相手の間違いを発見したらとにかくそれを告発しさえすればいいという「痩せた考え」から脱却しましょうよ、ということです。
社民党のようになんでも反対・反対というのは簡単だし(そのうち社民党自身にも反対し出したりして 笑)、費用対効果(ここでいう費用とは「頭を使う」こと)もいいので取り組みやすいというのもあるのでしょう。

しかし、反対するだけでは何も生み出されません。何かを生み出すには「発想の転換」が必要です。
福本作品はこのような示唆に富んでいるので、私は昔から大好きです。