隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

あけましておめでとうございます

今年も一年、だいぶつのブログをよろしくお願いします。

いろいろあったのでおめでとうは何となく自粛していたんですが、関西では特に自粛ムードもないようなので普通におめでとうと言っちゃったりします。

昨年末はホメオパシーの無効性の主張をする人が現れて、私自身もいろいろ考えさせられたのですが、結論的には「無効性の証明」は、やはり大変難しいかまたは不可能なんだろうと思い至りました。つまり、あの方はそれを知ってか知らずか、勝てないケンカをしようとしていたのだと思います。
いわゆる「悪魔の証明」というやつなのですが、ある事実が「有効」であることを証明するのは簡単で、何か一つ有効である例を持って来さえすれば良いのです。例えば、ある薬が効くことを証明したければ、ある一人に飲ませてそれが効きさえすればよいのです。少なくとも、「その一人」には効くことが証明されたわけですから「有効」なわけです。
もっとも、実用的には「誰にでも効く薬」がベストなので、いろいろな検査方法で「何だかよくわからないけど効いちゃう」「何だか効いた気がする」ものを除外して、できるだけ客観的に薬の成分が効くものを「有効な薬」というわけです。そのために二重盲検といった検査法方があるわけです。

で、ここで根本的にあの方が履き違えているのは、こういう薬の検査方法は「有効かどうか」を判定するためにあるものであり、「無効かどうか」を判定するためのものではないという点です。つまり、「有効」と判定されなかったものがすなわち「無効」ではないのです。

「有効じゃなかったら無効じゃないの?」と思うかもしれませんが、違います。有効でないものは「その検査で有効と判定されなかった」に過ぎません。仮に何百回・何千回検査をしたところで、この事実に変更は起こりません。

高校で物理を勉強したときに、割り切れない問題が出て来て、それに対して「先生、この問題は割り切れません。問題が間違っています。」という生徒がいたことが、物理の先生の語り草になっていました。その先生の回答は「世の中、割り切れることより割り切れないことの方が多いのです」でした(ちなみに、問題は間違っていませんでした。有効数字内で四捨五入することが正解です)。

有効でないことすなわち無効と考える態度は、私に上の話を思い出させてくれました。

私は大学で「計測工学」(物を測る勉強)というのを勉強したんですが、授業の冒頭で「物の長さとか重さを完璧に測ることは絶対に不可能です」という話があったり、統計工学の授業の冒頭では「統計学とは、つまり人をうまく騙すための学問です」といった話があったり、そういうことも思い出しました。

では「無効性の判定はできないの?」と思われることかと思いますが、不可能ではないと思います。
でも、無効性の証明をしたい側はそんなことは多分しないと思います。おそらく、それは逆に「有効性の証明」をしてしまう結果となるからです。
だから、わざと「有効性の証明」を行うための判定法を用いて「有効とはいえない」という話にして、それがあたかも「無効」であるかのようにみせかけようとしているのでしょう。

ものすごく突っ込むとこういう話になるわけですが、こういう議論をしていただける方とはぜひお話ししたいですね。はじめに結論ありきで、否定にかかってこられてもあまり建設的な議論とならないし、私自身あまり楽しくありませんので・・・。「うーん」と唸らせていただけるようなツッコミをお待ちしております。