隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

正しいものは正しい

ほぼ哲学のテーマなのですが、最近(私の中で)病気の治療と密接に関連していることがわかって来たので、今日は「真理」について書きます。手に余るテーマであることは十分承知していますが、現時点での私の見解をまとめておきたいとおもいます。

何が真理か、というのはよく取りざたされることなのですが、これに対する回答はとても単純で「正しいものは正しい」のです。これは私の創作ではなく、中村天風師の言葉です。
「正しいものは、多数決で決まらない」。「100人中99人が反対しても、正しいものは正しい」というのが割と正確な引用となります。例によって本を読みながらではないので、正しくは「成功の実現」「ほんとうの心の言葉」などを読んでみてください。

考えてみたらその通りで、誰がどう言おうとも、間違っていることは間違っていますし、正しいことは正しいです。なぜならそれが真理だからです。人殺しというテーマで考えてみてください。100人中99人が人殺しを正しいとしたら、人殺しは正しいことになりますか?(私は正しいとも間違ってるともここでは書きませんよ)

この言葉は、私にキリストの「迷えない99匹の子羊より1匹の迷える子羊のために私は泣く」の言葉を思い出させます。まあ、同じ意味かどうか全く自信はありませんが、私の中ではかなり近い言葉に感じています。似たような例に、親鸞上人の「悪人正機」の考え方もありますが、私の中ではこれもかなり近いです。

勘違いしてはいけないのが、中村天風が宗教家ではないという点です。公式にはヨガ行者・哲学者とされていますが、中村天風は大学もちゃんと出ている秀才で、何か国語もペラペラで、公式な記録にはなっていませんがアメリカで医学博士の資格も取っています(密航して入国していたため公式には取れなかったようです)。

つまり、実はちゃんとしたお医者さんの資格も持っている、アカデミックな方なのです。その辺の新興宗教の教祖と同じように思ってはいけません。

そのように、哲学・科学・理学・東西医学をきちんと学び、修めた方が晩年に語ったのがタイトルのような言葉だったわけです。

天風によると、正しいことは理屈ではわからないと言います。
理詰めで「これがこうだからこう」というのは、理屈であって、真理ではないと言います(繰り返しますが、天風は我々よりずっと論理的思考において優れた方なんです)。
真理というのは、その考えを心に浮かべたときに、何も反対するものが心に現れず、何の疑いもなくこれが正しいと感じられるものである、とこうおっしゃっています。

私は、最初にこれを読んだとき「なるほどそうなんだ」とは思ったのですが、実感として意味がわかりませんでした。その後、かなりの期間を置いて神田橋篠治先生の「気持ち良さを感じ取り、味わう」という「精神科養生のコツ」の冒頭の言葉を読んでなるほどと思ったのですが、そのさらにしばらくあとに、これらがほぼ同じことを意味している、ということがわかりました。

ものすごくグレードダウンして、「正しい病気の治療」というところに絞った場合、「気持ち良さを味わう」という治療方針は「真理は勝手に分かるものである」ということと、本質的には同じなのです。

それを外部からCTスキャンしてみたり胃カメラを飲んでみたりしても、正しいことはわからないのです。自分自身の気持ち良さを感じるというところが、根本的に抜け落ちていて、他人任せにしてしまったことが、病気を悪化させたりする結果になってしまいます。

人類の知的進歩についても、同じことが言えます。
例えば、アインシュタインが相対性理論を考えついたとき、それは理詰めで考えた結果でしょうか?何かの方程式を解いて、相対性理論が生まれたのでしょうか?
アインシュタインが真理に一歩近づけたのは、己の直感を信じたからだと私は思います。

これは、人類のあらゆる知的飛躍について言えると思います。
何より、周りの顔色を伺って人に合わせようとする行為の、何と滑稽で面白くないことでしょうか。現在すでに確立されている(とされる)科学を用いて「虎の威を借る狐」をしている人は、地動説騒ぎの頃に生きていたら、もちろんジョルダーノ・ブルーノを殺す側に加担していたことでしょう。

私ごときには宇宙の真理には近づけようはずもありませんが、自分自身の体についてくらいは、ちゃんと分かるようになりたいものです。
そういう意味で、今日は「真理」をテーマに「統合医療」カテゴリで書いてみました。