隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

ホメオパシー否定論と統計学のマジック

私は4年制大学の工学部を卒業した「工学学士」の資格を持っています。なので、科学で飯を食っているわけではないですが、一応「科学者のはしくれ」を自認しています。これは、別にえらそぶっていうわけではなく、科学のリテラシーを備えているつもり、という意味です。

工学部の基本中の基本となる学問に「統計工学」というものがあるのですが、私は大学2年の時「統計工学I」を履修していました。一応、合格はしたものの、あまりちゃんと勉強はしていませんので今ではすっかり忘れています。

しかし、その授業の冒頭で聞いた台詞にはびっくりしました。

「統計工学とはうまく人をだますためにある学問である」
これは、統計工学の教授が本当に言ったことであり、私の創作ではありません。そしてこれは事実です。

どういうことか、もう少し細かく検証してみましょう。
ここに1つのサイコロがあったとします。一般的に、サイコロは1~6の各面が1/6の確率で出るものとされています。ではもしあなたが、「このサイコロの各面が1/6で出ることを立証しろ」と言われたら、一体どうしたらいいかわかりますか?

実は、この命題は不可能命題なのです。つまり、できませんというのが正解です。
どうあがいても、これを立証することは不可能なんです(なんで不可能か、分からない方は統計学を勉強してください)。

しかし、工学的には「できまへ~ん」では困ります。そこでこれを工学的に行う(証明できたかのように見せかける)ための手法を授けるのが冒頭で触れた「統計工学」です。

基本的な考え方は「立証」はできないのだから「もっともらしいことを言ったらええんや!」ということです。そのためにいろんな「人をだます手法」が考案されています。その集大成が「統計工学」と考えていいと思います。

上記のサイコロの例でしたら、多分「サイコロの各目の出る確率は振る行為によって一切変化しない(実際にはあり得ない)」という仮定に基づいて多数回サイコロを振って結果を検証をするのが一応の答えになるのだと思います。

実際にサイコロを1000回・10000回と振って、各目の出た回数が167回・1667回に近づいて行ったらまあ、だいたい1/6じゃないの?という結果になります(これを数学的に処理して「だいたい」を数学的に表現するのが「検定」です)。
この「だいたい」が大変重要で、統計工学ではこの「だいたい」が取れることは決してありません。たとえ試行回数を1兆回にしたところで「だいたい」は取れません。それまでにサイコロが擦り切れるかもしれませんしね(サイコロが擦り切れる可能性に気づけば「試行そのものが対象に影響を与える可能性がある」ことも推測できます)。

なんだかムズムズしますが、工学というのはそういうものなのです。
「人間の知りうること取りうる手法には限界がある」という前提で「可能なことを追求する」ということが工学の態度です。

そこで、昨今のホメオパシー否定論を読むと、科学者たるべき医学者が、統計学を利用して人を積極的に騙そうと言う態度が見てとれて、同じ科学者として大変恥ずべき行為だと思いました。

上記した通り「統計工学」の態度では、サイコロを振ることにも大変慎重な態度で臨みます。そしてなおかつ、出た結果に対しては常に「間違ってる可能性もあるよ」と付記することになっています。

そこで「薬を飲む」ということを考えた場合どうなるか考えてみてください。あなたが、「この薬が効くかどうかを調べてください」と聞かれたとします。実は、これは上記のサイコロよりもはるかに難しい命題です。そして、上記の非常に単純なモデルであるサイコロの目の出る確率ですら完璧な正解は決して出ないと言うことはもう学術的に明らかにされています。さらに「施行そのものが対象に影響を与える可能性がある(サイコロですら)」ということも分かっています。

実際に検定せずとも、結果は火を見るより明らかです。有意な結果を得ることは非常に難しいと言わざるを得ません。また、仮に何らかの手法でホメオパシーは無効らしいという結果が出たとしても、その扱いには万全の慎重を期さねばなりません。
それを、「医学者という地位を守る」というエゴイズムのため、大衆をだますために恣意的な結果を公表しているのであれば、これは糾弾されてしかるべき行為と言えます。

ホメオパシーを信じて救われた人もたくさんいるでしょう。宗教や哲学家に救われた人もたくさんいます。「科学信奉者」がそれを否定したい気持ちは分かりますが、その行為自体が「宗教戦争」「十字軍」と同じものなのだと言うことになぜ思い至らないのでしょうか。

このような「統計工学」の態度がまるで抜け落ちている点に、一部の科学者の堕落を感じます。いや、このような人間は、私の定義ではすでに科学者ですらありません。

「統計工学」では、工業製品という「人間でないもの」にすらそこまでの態度で臨みます。こと「人命」に立ち向かわなければならない医学者が、そのように統計学をぞんざいに扱ってもよいものなのでしょうか?

ちなみに、医学者はもともと工学者ではありませんので、統計学はさわり程度しか勉強していません。
上述したような統計工学のリテラシーはないものと考えてよいと思います。

統計工学のリテラシーを西洋医学に取り込んだものが「実証医学」なのだと私は考えており、それはおおむね間違っていないと思います。
しかし、一部の医学者や代替医療家・はては宗教家が、巧みに言葉をろうしてこのような用語を取り込んで来ています。もはや、全員がリテラシーを備えなければならない時代に来ているのだと思います。