隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

物事の本質を見る目を養う

このブログに書いている内容は、私自身の「気づき」に基づいて書かれている私の主観であり、そういう意味においてすべて事実を書いております。
実は「客観」と言う言葉は単なる言葉であって、そのようなものは実在しません。仮に「客体」と言うものが実在すると仮定したとしても、それを認識し考えた時点でそれは「主観」になっていますから、「客体の実在」を証明することは不可能です。
なので、主観を突き詰めていけば究極(まあ良くいう宇宙意思のようなもの)に行きつくのであり、「客観」という存在しないものをいくら追及してもたどり着ける場所には限界があります。

私はよくパソコンのセットアップをしていたのですが、いくらやってもネットワークにつながらず半日とかヘタしたら一日を費やしたことがよくあります。経験上、その原因の多くが「LANケーブルが抜けている」と言うことでした。

LANケーブルが抜けていることは、パソコン上のプロパティをいくら見ても見つかりません(今のOSでは分かるようになっていますが、当時は分かりませんでした)。「もう諦めた」と休憩しに行こうとした瞬間、ケーブルが抜けかかっているのが発覚、と言うパターンです。
ソフト的な設定にのみ頓着していると、そういうことが頭からすっぽり抜けていることがあります。

同様の理由で「客観的」思考によって究極の真実に近づくことは不可能です。
論理の究極にあるものはやはり論理であって、超論理ではありません。もちろん、それが無意味だと言っているのではありません。役に立つこともあります。しかし、それはゲームやマンガが「人を楽しませる」と言う「役に立つ」と言うことと、本質的に大きな違いはありません。

人間の想像力は無限大と言った言い回しを聞きます。
無限大を意味する記号を、ユニット名に使ったアイドルグループすら存在します。
現代人は「無限大」をやたら多用する傾向にありますが、無限大と言うものは宇宙に存在しません。必ず有限です。
したがって、宇宙の一部である人間も有限であり、客体に対してしか思考できない人間の想像力も有限でしかありえません。
そう考えると、Googleのネーミングは、とても殊勝ではないだろうか?と私は思います。(Google = 10の100乗、1のあとに100個ゼロがつく数)。無限大は、Googleのまだ無限大倍大きいのです

「俺の想像力は無限大だぜ!」と言う方は、4次元の図形「超立方体」を想像してみてください。私も想像しようと努力しましたが、無理でした。私は長い間「なぜ人間は超立方体を想像できないのか」に対して、とても興味がありました。
最近の結論としては「人間は自分の経験したことしか考えられない」と言うことになりました。

では、なぜこの人間存在があるんでしょうか?なぜ、自分の心臓は動いているんでしょうか?
医学的になんだかんだと言えることはあるかもしれませんが、究極的なところは「ようわからん」のが事実ですし、それを認められるのが良識的な医学者であり科学者だと思います。

重力理論を極めたかに見えたアインシュタインは晩年「石はなぜ落ちるのか」というテーマに取りつかれ、モンゴルで遊牧民の少年の「石は落ちたがっている」と言う言葉に衝撃を受けたそうです(この回答は論理的に完全に自己無矛盾で反駁できない、もちろん石の意思を立証はできません)。

「相対性」を軸にニュートン力学を補正したアインシュタインに神の後ろ盾はありませんので、ここまで踏み込むと、哲学的に考えださないと回答を得られなくなってきます(得られたかどうかは知りません)。

よく考えると言うことは、よく考えているようですが、実は「考えない」という選択肢を放棄しているともいえます。考えない事、感じることも同じくらい重要と言うことを覚えたうえで物事に取り組むと、本質を見る目が養われてきます。

物事を鵜呑みにするということは、考えることを放棄しています。鵜呑みにしたものを基本に考えると言うことは、考えないと言うことを放棄しています。真実が何かは、自分の心に照らして感じるのが良いと思います。
得られた真実はあなたにとっての真実ですから、別に疑う必要はありません。疑いの余地があるならそれは真実ではないのです。

アインシュタインのしたように、自身のものにしたかに見える「知識」をいったん放棄してみるのも、ひとつの手法です。

書いている自分自身何を書いているのかよくわかりませんが、まあ、何事にもとらわれるな、と言うよくあるセリフの言いなおしみたいなものと思ってくだされば幸いです。