隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

【統合医療】「心身相関的悪循環について」

久々に、割と科学的に「心身一如」のことを考察した記事を見つけましたので、Twitterでもリツイートしたんですが、記事を設けて紹介させていただきます。

斎藤清二先生の「心身相関的悪循環について」「ライバルを心身症にする方法」
統合医療の考え方から行くといまさらな内容ではありますが、きちんとまとまっているところは評価に値すると思います。
ここでいう「システム論的な考え方」というのは、難しそうですが、要は体も心も一つの「システム」として考えちゃうということで、古くからある「心身一如」という言葉を今風に言い換えたものです。

私はこの記事の内容に大筋同意なのですが、ひとつ指摘したいのが「意識的に『気にしない』事は不可能」と言ってしまっている点についてです。

確かに、多くの人には難しいことではあるのですが、これが不可能でない事は中村天風が証明しております。正確には「かなり難しい」ということです。どれくらい難しいかというと、多分東大合格よりかなり難しいと思います。

どういうことかというと、「気にしない」ことを意識すると「気にしない事を気にしている」わけですから、「気にしない」状態でなくなるのです。
では、意識的に気にしない事は出来ないのかというと、そういうことはありません。「気にしない」努力をするのではなく、「意識を放す」努力をするのです。「意識を放す」努力をすると、意識的に気にしない事が出来るようになります。

禅僧などは、そういう努力を日々続けているわけです。禅問答をするなどというのも、意識を放す努力の一環です。「気にしない」ための方法論はたくさんありますし、それを実践している人もたくさんいます。スポーツでいう「ゾーン」というのも、これの一種です。

まあ、「不可能なことに固執しない」(最近の人は過程ではなく成否に固執する癖があるようなので)というのはある意味方便です。しかし、「不可能なことにトライしてはいけない」ということはありません。そうなると、あらゆる宗教の存在意義が否定されます(宗教は本来、不可能な目標を設定するところに意義があります。なぜ不可能な目標を設定することに意義があるのかは、長くなるので省略)。

とはいうものの、この手の病気になる人っていうのは大体がそういう固執癖を持っているものなのです。それは、多くは西洋医学的なパラダイム(つまりこの記事が反省を試みている「原因除去方式」)からきているものです。

長い期間にわたって刷り込まれた西洋医学的パラダイムから離れることを試みるこの記事の主眼は、やはり「気にしない」ことを目標としているように見えます。

善意に解釈すれば「人に対して『気にするな』というのは暴力だが、自分に対して『気にしない』というのは良い」ってことになるのかもしれません。

私個人的には「意識的に『気にしない』ことは可能だが、修行が必要なくらい難しい」くらいの方が夢があってよいと思っていたりはします。「気にしない」という語感が割と簡単に実現できそうなので、そういう意味では誤解が生じやすく、患者のためにならない、そういうことは確かにあり得るでしょう。

でも患者のためになると言うことは、患者自身が悪循環から脱出することだから、そこには何らかの飛躍がなければならないと言うことですから、それで悪化すると言うのもその患者の「ありよう」といえるはずなんです。

そして極度の悪化を経て、死ぬ人もいるでしょうけど、そこから復活して回復というシナリオもあり得ない事はない気がします。今の医療では、そういうのはダメってことになっていますけど。

いろいろ考えてみても、やはり難しいですね。やはり、最後は「天は自ら助くるものを助く」なんですかね。
治療家って難しいですね。ただの一患者でよかった・・・。