隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

論文はありがたいものだろうか?

よくコメントをしてくださるlocust0138氏は、某国立大学の農学部の修士課程を修了された方で、国際学会誌に論文が掲載されたことのある秀才だそうです。

その点に関して全く否定はしないのですが、氏はそのせいもあってか論文偏重主義で、論文になっていないものには一切の信ぴょう性が無い、とでも言いたそうな風潮を持っておられます。これは私は大変な偏見であると思っております。

たとえば、氏は以前私が紹介した「精神科養生のコツ」の著者、神田橋篠治氏のことを「ああ、あのオカルトか」というような語り口で言っておられた記憶があります。今も臨床で治療にあたっておられるうえ、精神科臨床医や臨床心理士などであれば読んでいない方がおかしいとまで言われている「コツ三部作」をさえ否定しかねない勢いです。

氏は、どうしてここまで論文を偏重するのでしょうか?
私の憶測ですが、「寄らば大樹の陰」というのが、そのつまるところなのではないかと思っております。

査読だなんだと言っておられますが、結局はその学会で一番偉い人がいいと言えばいいことになるし、どんな優れた論文であってもその学会で一番偉い人がダメと言えばダメだと言うのが、私の「学会」に対する認識です。
まあ、学会に論文を提出したことすらない私がこんなことを言っても、臨床医療に携わったことすらない氏が医学のことをまことしやかに語るのと同じくらい、偏見に過ぎないってことは分かっているのですが、それでも言わざるを得ない気がして書いております。

だから、論文を提出すると言うのは結局は権威へ「すり寄っている」に過ぎない行為なわけです。
たとえば、国会議員に陳情するとか、それとつまるところは同じ話なのです。いろいろ、プロトコルや作法があることでしょう。その、私から言わせれば何の意味もないプロトコルや作法を乗り越えること自体に満足感を感じてしまい、論文の内容をより優れたものにする意欲はそのうちそがれてしまうことでしょう。

氏は「代替医療はエビデンスがないから信ぴょう性がない」と、何度も繰り返していますが、代替医療側から言わせれば、エビデンスを提出したところで門前払いとなる、それが学会でありましょう。仮に、多くの辛苦を乗り越えて論文を提出しても、あざ笑われたりするのがオチとなるのではないでしょうか。

そして、いまあざ笑われているのが主にホメオパシーであり、このヒエラルキーを維持することで、将来的に現れるであろう代替医療もあしらっていこうと言うのが医学会のいままでの流れです。

EBMという黒船によって、この「根拠のない」権威を失墜させ、「臨床例」という何物もあらがえざる「証拠」を柱に据えて医学会を再構築していこうと言うのが現在の動きです。

このヒエラルキーは逆転を迫られ、喉元に匕首を突きつけられているのが自分たちの方だと言うことに気づいていないのですから、まったくもっておめでたい限りと言わざるを得ません。もしくは、そんなことを承知の上で、あえてEBMを自らの権威を増す機会ととらえている医学者も、残念ですがいるでしょう。

locust0138氏にはその自覚はまったくないものの、「学会の崇高性」を学生時代に刷り込まれてしまったが故、そういう権威にしなだれかかるような言説しか医療に関してできないのは、高い知性を持ちながらあまりにも残念と言わざるを得ません。

いずれにせよ、時間が結果を出すでしょう。私には自らが正しいと思う方向性を情報発信するくらいしか、できることがありません。