隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

貧困なる精神

タイトルは本多勝一氏の著書名ですが、今日は「貧困なる精神」について考えて見ます。

「しゃがむ姿勢はかっこ悪いか?」というエッセイが、一連の「貧困なる精神」著作の中に含まれるのですが、その内容を紹介します。

本多勝一氏が、田舎の田んぼ道を通りかかったときに、近所で結婚式でもあったのでしょう、タキシード姿の農家のおっちゃんがあぜ道にしゃがんで、キセルでタバコをふかしていたそうです。それを見て、本多勝一氏は「うわぁ、カッコ悪!」と思った。と、そういう話です。

そこから本多勝一氏は考察します。なぜかっこ悪いと思ったのかをです。しゃがんでいたから?しゃがむ姿勢がかっこ悪いから?しかし、本多勝一氏も田舎の出で、あぜ道にしゃがみこんでいるおっちゃんをいく度と見てきているのに、かっこ悪いと思ったことがありません。

タキシード姿という、欧米文化の産物を着て、あぜ道にしゃがみこんでいたことが原因ではないかと、本多勝一氏は結論します。もし普段の野良仕事の装束で同じ格好をしていたら、むしろ一種の「カッコ良さ」すら感じただろうと締めくくられます。

この話は示唆に富んでいます。「しゃがむ姿勢がかっこ悪いか、悪くないか」という当初の設問の枠内では得られない結論に、本多勝一氏がたどり着いているところが、最も示唆深いと私は思っています。

何が一体「貧困なる精神」なのかというと、この最初の設問の枠を打ち破れない発想力の乏しさなのです。

正しいか間違っているか。その二つしかないという発想では真理に近づけないのです。
これでは今世の中にあるものを超えるものが誕生し得ません。我々の使命は人類の進化発展に寄与することです。机上で、先人たちの「遺産」を弄んでいるだけでは、何の進歩もありません。

この当たり前の事実を考え直す必要があると私は思います。科学は発展して科学に解決できないものはないという考え方は「貧困なる精神」であると私は思います。常に自己批判、懐疑精神を持ち続けて始めて、科学は科学として成立します。

そういう思い込みをしている人は、自分すら疑ったデカルトから、何も学んでいないのでしょうね。
「我々は知識の大海の砂浜で遊んでいる子供にすぎない」と言ったニュートンの言葉も知らないのでしょう。
ニュートンが晩年、占星術や錬金術を真面目に研究していたことも知らないのでしょう。

さて、「ホメオパシーは効くのか、効かないのか」という設問はどうでしょうか?
そういう設問を考えること自体が私は「貧困なる精神」ではないかと思っています。それよりも、一人の人でも救えればそれに勝るものはないでしょう。

私は、このブログの読者が私の個人的体験を参考にして、一人でも助かる人がいたらそれでいいと思っています。