隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

現代日本人のタブー観の喪失

休みにWikipediaのホメオパシーの項目を熟読していたのですが、書かれていた内容があまりにもこのブログにホメオパシー否定コメントをたくさんしてくださったid:locast0138氏と同じで、思わずにやけてしまいました。
氏が勉強家だなと言うことが良くわかったのとともに、もう一歩踏み込んだ考察ができる方なら良い友人になれたのだろうにと言う残念な気持ちもあります。

もっとも、こういう考察を与えていただいたという点において感謝すべき点もあると思っております。

ちなみに誤解のないように書いておきますが、id:locast0138氏からコメントを受けるずっと前から私はWikipediaの該当項目は読んだことがあり、(今より内容が少なかったような記憶はありますが)読んだ当初は私もホメオパシーに対して否定的な感じを受けました。

そんな「ただの水」みたいなもので病気が治せるわけはない。私もそう思いましたし、一定の説得力を持つ意見ではあります。

ただ、「一事が万事」ではないのですから、たとえばビタミンK2シロップを与えなかったことによって乳児が死亡した、という極端な例を引用して「ホメオパシー=悪」とする言説には、違和感を感じざるを得ません。

これは、ちょうど「エホバの証人」の輸血拒否による死亡事件と同じ理屈ではないでしょうか?

何年か前にビートたけしさんが主演していたドラマを見ましたが、ビートたけしさんの好演もあって、大変考えさせられる作品に仕上がっていました。

たとえば、イスラム教徒は豚肉を食べません。豚は「不浄の動物」であるが故それを食したものは不浄な存在となるためです。イスラム圏の戦争難民に米軍が食糧投下をしたところ、豚肉入りのソーセージなどであったため、多くのイスラム教徒はそれを食べずに餓死を選択したそうです。

まあ「エホバの証人」の輸血拒否やホメオパシーのビタミンK2シロップに関しては、本人の意思ではなく親の意思でというところが問題視されるのだと思いますが、イスラム教徒の中にはもちろん子どももいたでしょうし食べたいと言った子供もいたかもしれません。

こうなってくると「宗教=悪」説を展開し出す人もいるのですが、私は「宗教は方便」だと思っていますし「どんな手を使っても生き延びる必要がある、一個の命は地球より重い」と言うのは幻想にすぎないと思っています。

タブー観と言うものは方便として私は重要だと思っていますし、タブーを失ったものは「人間」から動物である「ヒト」になり下がると私は思っています。

まあ、エホバの証人と違うのはホメオパシーは治療手段の一つであって宗教ではないと言うこと、また「ホメオパス」の存在がただの治療理論・手法に過ぎないホメオパシーを「宗教化」してしまっている点は問題と言えるかもしれません。

いわば、「医療の傘を着た宗教」と言うことでしょう。そういう議論はしても面白いと思います。もちろん、結論は出ません。なので、性急に結論を望む人とはこの議論は成立しません。

エホバの証人事件でいえば、タブーを犯して輸血をして生き延びても、その子供の魂は汚されると言うことになります。今の命を救うか、魂を汚すか。父親にとっては究極の選択だったと思います(いや~、たけしさんの演技が良かったなぁ)。

ただ、たとえば仏教にも「不殺生戒」(殺すべからず)という戒律がありますが、このために仏教徒は建物を建てられません。土を掘ると土中の虫を殺してしまうからです。人に命じて土を掘っても同じことになります。不殺生戒を犯すと教団を追いだされるほどの重罪です。これに対しては「浄語」(じょうご)という方便があり「これを掘れ」というと戒律違反ですが「これを知れ」と言えば戒律に違反しないのです。

エホバの証人もこういう方便を用意しておくべきだったという気はします。古い宗教にはおおむね方便があります。もともと、宗教的目的と言うのは絶対的に実現不可能なものだからです。新興宗教はこういうところが弱い気はしなくもありません。

話がそれましたが、ものすごく端的な例で言いますと、過去にヒマラヤへの飛行機の墜落事故で生き延びた何人かが、死体を食べて生き延びたと言う話がありました。もちろん、中には人肉など食べられないと言って餓死を選んだ人もいたことでしょう。さて、人肉を食べて生き延びた人と、餓死を選んだ人、どちらがあなたは正しいと思いますか?

私の中では答えは出ません。どちらが正しい正しくないの問題ではなく、どちらの方も自分の信じる道を信じて人生を全うした。そういう意味でどちらも尊いのだと思います。

人間と言うのは、そういう生き方しかできないと思うのです。
脳と言う「考える臓器」を究極まで進化させた人間は、その「考える能力」が最大の武器です。
その「考えた結果」タブー観を持つに至り、それが生命体としての「ヒト」の存続を脅かしても、「ヒト」は「人間」たろうとする存在なのです。

逆に、「ヒト」が成長・学習に従って「人間」になるのではなく、生まれた時点から「人間」で無限の人権を持ち地球より重い命が与えられているという「お花畑」教育には疑問を感じます。

うちに2歳の男児がいますが、まだまだお猿さん以下です。これを「人間」にしてやるのが親の務めです。

日常的な話で言うと、ご飯を食べる前に手を合わせていただきますをする。医学的・科学的にはおそらくなんらの効果も認められない事です。正月に初もうでをする、鏡餅でトイレを祀る、宮参りをする、七五三参りをする、家を建てるには地鎮祭をする、墓参りをする、医学的・科学的にはまったくなんの効果もありません。

でも営々と営まれてきていることなのだから何か一定の意味があると考えるのは健全な思考だと私は思いますし、営々と営まれてきたことを私の代でやめにする勇気はありません。

一部の人間は、「科学」という宗教の力を借りてこういうことの否定を試みているようにも思います。しかし、科学技術は最終的なところで「人間」を救ってはくれません。原発事故でそれを多くの人が目の当たりにしたはずです。

しかし、上記のような因習も徐々に薄れてきていたり、キリスト教の伝統行事が取り入れられたりとわけわからなくなってきて、タブー観も喪失しつつあるように思います。私自身、昔は歩きながら食べることが「行儀悪い」と感じたのですが、最近では歩きながら飲み食いすることに抵抗がなくなりつつあります。

これこそが「カルト」が跋扈するゆえんであり、それゆえもっとも考察を必要とされている点ではないでしょうか?「科学的・医学的な絶対否定を試みること」は、リテラシー不足の宗教家に対してはなおのこと不適切であり、米国の力づくで思想を屈服させようとする試みに対するイスラム教徒の自爆テロのような暴発を招きかねないやり方であることを指摘しておきたいと思います。