隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

医療の無償化がもたらすもの

以前「財政を蘇らせるには」というエントリで医療行為の無償化について書いたところ、あまり良くない反響をたくさんいただきました。

やはり自分の書いていることは荒唐無稽なのだろうかとも思ったのですが、最近岡田斗司夫氏のブログ記事「僕らは評価経済の高度成長期に入った」を読んで同じような方向性を感じ、また岡田氏のブログ記事はかなり評判が良いようなので、どうやら自分の書き方がまずかったためちゃんと意図が伝わっていないのだろうなと思いました。

冷静に考えてみると、献血は昔は有償でしたが今は無償でないとダメと法律で義務付けられています。献血は無償が可能で、医療は無償が不可能と言うことはないように思います。

貨幣経済だけの原理で考えると何も得しない、時間を取られて血も取られるだけの献血を行う人は、お金の代わりに何らかのものを得ているのだろうと考えられます。それが、岡田氏の言うところの「評価」でしょう。

貨幣しか価値基準がないなら、献血をする人は皆無とならないと筋が通りません。

同様に、医療行為が無償化されると医師は治療をしてお金を得ませんが「評価」を得ると言うことになります。ちなみに、医療行為が無償化されても薬を売ることに対して「薬の対価」を請求することは可能です。ただし、医師はマージンを抜いてはいけません。したがって、不要な薬を処方するメリットが医師になくなり、効かない薬は売れなくなります。

医師は「評価」を蓄えるために治療を行うわけですから、間違った治療を行うことはすなわち評価を失うことを意味しますので、切磋琢磨します。蓄えられた「評価」は、将来的には貨幣よりも価値をもつものとなります。必要に応じて「評価」は「貨幣」に変換できますので、お金がなくても評価の高い人は食うに困りません。

たとえば、Wikipediaがあります。広告を一つも表示せず、クオリティの高いコンテンツを提供し続けています。これはWikipediaの評価が高く、なおかつ必要に応じて(寄付などの形で)評価を貨幣に変換できることを表しています。

今は法律やらなんやらでがんじがらめなので評判のいい病院を探すのにも一苦労するわけですが、それが簡単になります。規制緩和によりインターネット診断も可能となり、医師の回転率も上がります。

こういう議論をしていると「死んだときの責任云々」を言い出す人が必ず現れるのですが、人はすべて自分の命や人生に責任を負っています。これは自然な話です。法の下の平等や生存権は、あくまで自分自身が自分の命や人生に対する責任を全うしていると言う前提で初めて発生するものです。

こうして考えると「医療無償化論」の根幹は

・各人が自分自身の命および人生に対する責任をちゃんと担う
・医師の実力重視(評価の高い医師が優遇される)

この二点にあるのだと思います。

患者が死んだ責任を病院や介護センターに責任転嫁するのが現在の流行りのようです。

不適切介護、ワタミ子会社に2160万賠償命令
「不適切介護」とありますが、寝たきり老人が褥瘡(床ずれ)を起こすことは珍しいことではありません。想像するに、入所時点ですでに相当の褥瘡があったものと推察されます。毎日お見舞いして清褥(体を拭く作業)を行えば褥瘡(床ずれ)は徐々に良くなっていくものです(Ns'あおい調べ)。一体、誰に産んでもらったのでしょうか?全責任を介護センター側に求めることを不自然と感じるのは私だけでしょうか。

こういうこともあるので「医療行為の無償化」と言うことに対して危惧を抱くのでしょうけど、むしろお金を払わない=責任転嫁出来なくなる、と言うことが一つの心理的バイアスとして働くのではないでしょうか。
結果として医師が十全に努力した結果の死亡責任を問われることはなくなり、これもいい方向に働くでしょう。

これがただの荒唐無稽な理論かどうかは、時間が答えを導くと思います。