隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

人工中絶反対について

この前、はてなブックマークで以下のエントリが話題が呼んでいたので私も読んでみたのですが、違和感を感じたので思わず以下のようなコメントを吐いてしまいました。

中絶に殺人罪を適用してくれよ
命そのものに価値があると勘違いしている典型だな。価値があるのは命じゃなく「善く生きること」なんだが。機会が与えられないのもひとつの因縁にすぎない。
長さに制限があるのであまり詳しくコメントできなかったのですが、中絶反対は意外と根が深いテーマで、考察する価値があると思いましたのでエントリを設けて詳細を記しておきたいと思います。

中絶が殺人、もっとひいて言うと「殺し」に当たるということには疑いの余地はないでしょう。つまり、仏教で言うところの不殺生戒(殺すべからず)、と言うこととほぼ同じことをこのブログ主が言っているように、一見見えます。
しかし、その中身はまったく異なるものであると私は思っています。

先のエントリでも書いた通り、仏教には「浄語」と言う言葉があり、その言葉を使えば戒律を犯したことにならないという「方便」が用意されています。

と言うのも、仏教の戒律は比丘(男の出家者)の場合で108つもあるのですが、このすべてを完璧に守りきることは極めて困難だからです。「浄語」のほかにも「捨戒の便方」(しゃかいのべんほう)と言って、いったん戒律を捨てることを宣言することで、戒律を犯しても仏教教団を追い出されなくなる(その代わり教団内のランクは最下位に下がる)という方便も用意されていました。

一言で言うと、ボイラーの「安全弁」のような装置がいくつも設けられていました。
安全弁は普段は開きませんが、危険時には開いて圧を逃します。
福島原発では、この安全弁が設置されていなかったためベントをしない限り必ず爆発してしまう構造になっていたと言うことは、あまり報道されない事実です。

安全弁がイメージできない人は、圧力鍋のふたの上の方についている「中に玉が入ってカチャカチャ言っている装置」のことをイメージすればいいでしょう。おおむね似たようなものです。

このことを「殺し」に当てはめて考えてみます。

人間は人間を「殺してはいけない」のでしょうか?もっというと、人間は他の生を「殺してはいけない」のでしょうか?
もちろん、一義的な答えは「殺してはいけない」となります。しかし「殺さざるを得ない」という状況も、必ず存在し得るのです。

たとえば、暴漢があなたを襲おうとしています。あなたの手にはナイフがあります。暴漢はあなたの首を絞めて殺そうとしています。心臓を刺そうと思えばさせない事はない位置です。

私であれば、刺し殺して生き延びようと思います。この状況下で「殺しは、決していけない事であるから、私は潔く殺される」と言って殺される人は、神や仏の類であって、人間ではありません。

暴漢は極端な例ですが、私たちは毎日牛や豚や鶏を食べて生きています。これらが「殺された」ものであることに間違いはありません。「殺された」ものを食べても仏教では「不殺生戒」を犯したのと同じことです(殺人教唆のようなもの)。これを食べるときに使う「浄語」が「いただきます」なのです。

我々は、殺生をしなければ生きていけないと言う過酷な生をいただいております。
問題は、そのことに対して自覚的か無自覚的か、ということです。

私の大好きなエントリなのですが、こちらをご覧ください(ウチナン=沖縄の原住民です)。

命について
私は、宮本亜門とウチナンは野蛮だと思います。
しかし、大変残念なことにこの世のどこかには「最も野蛮な人間達」が存在します。

最も野蛮な人間達
冒頭に紹介したブログ主は、明らかに自身の殺生に対して「無自覚的」であり「最も野蛮な人間達」に類されると思います。もちろん、残念ながら私自身も「最も野蛮な人間達」の一人であります。

こういうとき、私の頭の中には親鸞上人の「悪人正機」の教えが去来します。
善人なおとて往生をとぐ、いわんや悪人をや

善人でも往生(極楽に行く)が出来ると言う、なぜ悪人が往生できないなどと言うことがあろうか!
と言う意味なのですが、ちょっと理解しがたい方もいらっしゃるかも知れません。しかし、ここでいう「善人」とは「最も野蛮な人間達」のことであると言えば、少しは理解できるかもしれません。

殺している自覚なくして殺し、奪っている自覚なくして奪い、自身を「善人」と信じて疑わない、そのような「最も野蛮な人間達」が往生をとぐ。ならば、殺している自覚を感じて心に咎を感じ、奪っている自覚を感じて心を苦しめる。そういう「悪人」こそ往生してもいいのではないのか!と言うことなのです。

さて、話が大幅にそれたかに見えますが、中絶についてもそれぞれの因縁があるでしょう。
逆説的に考えれば、難を免れて生まれてきた赤ちゃんにはこの世に生まれ来る天命があったと言うことでしょう。

もっとも、上記の話が親鸞の言う「善人」に理解されるかどうか、自信はありません。
逆に、親鸞の「悪人正機」を誤解して、悪いことをすれば往生できるなどと言った誤った考え方を持つにいたる可能性を、否定することはできません。

しかし、「殺してはいけない」というのは、あくまで自分自身に対して持つ理念であり、それを強要してもさして意味はないと、私は思っています。
必要なのは、法律ではありません。その背後にある、絶対的な「命に対する観念」です。

最近の日本の教育では、「命」を教えるのに神や仏の力を借りない、という大変無謀な事を行って来ています。
つまり「命」を教える教師は神や仏と同等であることが求められます(せめてニーチェレベルが必要)。

そんなことは生身の人間には難しいと言うか通常不可能ですので、結局「命」と言うものをちゃんと教えられません。もしくは「命はとにかく絶対大事なものなのだ」と、小学生でもわかる矛盾した教えを教えます。

少なくとも、小学生時代のた私には「命が絶対大事なものである」ならなぜ「牛や豚を殺して食べていいのか」がまったく理解できませんでした。まだ、「牛や豚は人間の食料として神から与えられたものである」というキリスト教の教えの方がよほどスッキリしています。

「命」に関する記事を書くのであれば、最低限この程度の勉強や考察をしてからでないと、結局泥沼の議論にはまるだけです。