隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

【統合医療】医療の効果は実証不可能である

以前よりかみ合わない議論をしてきて、少しモヤモヤしていたのですが、そのモヤモヤが多少晴れました。
「アゴラ」のディスカッションペーパー「イノベーションの認知構造」に、デヴィッド・ヒュームの以下のような言葉が引用されていました。
すべての事実の逆もまた可能である。それは論理的な矛盾をきたさないし、他のすべての物事と同じように精神によって同様にたやすくはっきりと認識できるからだ。太陽があす昇らないという命題は、それが昇るという肯定命題と同じく意味があり、矛盾もない。(Hume [1772] PartⅠ)
私はデヴィッド・ヒュームと言う人を知らなかったのですが、18世紀の思想家だそうです。上記だけでは少しわかりにくいかもしれませんので、池田信夫氏の解説も引用します。
20世紀の科学哲学では、命題→演繹→検証→帰納→理論というサイクルで科学が発展するという論理実証主義が主流となった。これに対してカール・ポパーは、ヒューム的な懐疑主義にもとづいて、いくら実験で命題を検証しても反例が出ない保証はないと批判した。彼は理論が科学かどうかは「反証可能性」によって担保されると主張したが、ある反例が理論を否定するかどうかも自明ではない。有名な例としては、地動説に対する反証として「年周視差」が観測されなかった。地球が公転しているとすれば、遠くの恒星の見える角度が季節によって変わるはずだが、16世紀の望遠鏡では観測不可能だった。
つまり、過去にどのような事象が観測され帰納的(経験の積み重ね)に理論を組み立てても、その理論に反する事象は常に発生し得ると言うことです。

そのような事は「想定外」とうたわれた東日本大震災とそれに対する種々の対応を見ていてもはっきりしています。
「すべてを想定しきる」事は不可能だし、「起こりうる程度のものを想定する」というのは自己矛盾していると言うことです。

そして、池田信夫氏はこう結論します。
ある観測や実験が理論を反証するかどうかに客観的基準はなく、最終的には科学者集団の依拠している信念の体系としてのパラダイムに依存するのである(クーン[1971])。科学も宗教も、カトリックやプロテスタントといった教義(パラダイム)を共有した上でしかコミュニケーションが成立しないという点で本質的な違いはなく、ただ事実を観察していれば新しい発想が生まれてくるということはありえない。
平たく言うと科学(帰納法による理論の堆積とそれの演繹による応用)も宗教の一種である、と言うことを意味します。

最終的な結論としては「イノベーションは過去の事象の堆積によって生まれることはない」と言うことを池田氏は言いたいようです。そのためには「創造的破壊」、つまり今ある体系をいったん破壊することも必要であると閉じておられます。

池田氏の論理が正しいかどうかは私には断言できませんし、そもそも「正しいか否か」で測るべき事柄でもないように思います。

同じことを「医学」にあてはめてみれば、「医学」も宗教の一種であることは間違いなく、当然「妄信的な信者」も存在し、そういう「信徒」を説得するのは相当に骨の折れる仕事である、と言えると思います。

私としては「医療」という観点から、以下のような思考実験を行ってみました。

「病院に行ったから治った」「病院に行かなかったから死んだ」

と言う人がいたとします。もし、この人たちが逆の行動を取っていたらどうなっていたのだろうか?という思考実験です。

「病院に行ったから治った」と言う人が病院に行かなかった場合、もちろん死ぬこともあるでしょうが死なない事も当然考えられます。したがって「病院に行かなくても治った」も起こりえるということになります。

「病院に行かなかったから死んだ」という人が病院に行った場合、もちろん助かることもあるでしょうがやっぱり死ぬことも当然考えられます。したがって「病院に行っても死んだ」も起こりえるということになります。

しかし、人の命は一つしかないし、その時取れる行動も(結果的には)一つしかないわけですから、上記のような仮定は無意味です。

たとえば、Aさんが病院に行って今生きているなら、病院に行って生きているのがAさんであって、病院に行かなかった時点でAさんとは別のA'さんになっていたと言うことです。にわかには理解しがたいかもしれませんが、小学校などの性格形成に大きく影響を与える場を考えた場合、そこに「行ったか行かなかったか」はその人格に影響を及ぼします。だから、病院に行ったか行かなかったも人格に影響を及ぼします。

つまり、導かれる答えは「今生きている人は、今生きているから生きている」と言うことしかありません。
結論として、「その医療に効果があったのか」は、永久的に不明です。

ある一つの医療行為に対して、過去のデータの堆積は(あなた個人にとっては)意味をなさないと言うのが論理的帰結となります。
そこで「統合医療」では過去のデータではなく、自身の感覚を最大の指標とすることを推奨します。
過去のデータはあくまで「参考」ですし、厚労省などによって捏造されたデータなどは唾棄すべきものとなります。

臨床経験の豊富な医師等のアドバイスも参考になりますが、最終的な指標は「自分自身」です。

ちなみに、個人にとっては無意味な医療データの堆積ですが、多人数の人間の生存率を上げると言う目的であれば意味があると言うことが分かっています。だから、データを堆積するのです。

その目的で「人体実験」が行われることも少なくありませんので、子孫のためにはそういう人も多少はいないといけないと思いつつも、一人の個人としては自分自身の幸福を最大限追求したいと考えています。

「種の存続」と「個人の存続」と言うのは、かように隔絶したものなのです。
どちらを優先するかが、「標準医療」か「統合医療」かの分水嶺なのかもしれません。