隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

「誠意」を社員に教育しようとするわけのわからない会社

私の勤めている会社の社是のひとつに「誠意」というのがあります。

そして元経営者は、最近経営が行き詰っているのは「お前ら(社員)の誠意が足らないからだ」と居直り、「誠意」を勉強しろという話になっています。

会社を危機的状況に追い込んだ当の元経営者は、事実上の更迭人事で代表権を失いながらも、社員に対して「自分の判断ミスにより多大なる不安や不遇を与え大変申し訳ない」といった詫びの一言もなく「おまえら、もっと誠意をもってがんばれよ」みたいなことをほざかれて、悠々自適で「相談役」とか名乗っておられます(たぶん、私の年収の何倍もの報酬でしょう)。

この辺になってくるとあまりにバカバカしすぎて「ギャグか?」と思わずにはいられないのですが(たぶん、元経営者ご本人の言はギャグというかポジショントークと信じたいのですが)、困ったことに人事本部やらは真に受けているフシがあります。

ということで、大変バカバカしい「誠意」の研修と相成ったわけです。

そんな、クビになった元経営者(=間違った経営判断をした人)のもとで決まったようなことは全部反故にしちまえばいいと私なんかは思うんですが、うちの会社には自分でモノを考えられる人が激減しているので、どうしてもそういう話にはなりません。

結局、私も「誠意」の研修とやらを受けてきました。が、たぶん、小売店とかではどこでも開店前でやっているような、服装のチェックとかあいさつの仕方とか、そんなことをやっただけです。

ここまでに書かれていることは、困ったことに真実であり、私の創作ではありません。できれば、そうあってほしいですが(笑)。

そもそも、「誠意」というのは勉強できる性質のものではありません。もともと、誰の心の中にでもあるものです。

「誠意」というのは教育するものではなく、「引き出す」ものです。

そのための方法論として、毎朝朝礼で社訓を唱和するとかいうのが有効だった時代も、かつてあったでしょう。
でも、いまではまるで時代が違ってきています。たとえば日本マイクロソフトのように「一流レストランのような社員食堂」とかが、そういったものを引き出すための経営戦略ではないかと思います。

一言で言うと、日本型経営の敗北なのです。アメリカが、日本に自動車産業を壊滅させられたにもかかわらず、いまだAppleやDellといったメーカーが一流メーカーであり続けられるのには、そのような社員の誠意を引き出すための方法論を、常に探し続けてきたところにあるといってもいいのではないでしょうか?

それを、何十年も前に考え出された、カビの生えたような方法論で、いつまでも社員の「誠意」を絞り出し続けられると考えていることが、大きな勘違いといえるでしょう。

似た例でいうろ「愛」と読み替えれば簡単だと思います。「愛」を教育できるのでしょうか?
「愛してほしければ、まず愛しなさい」とか教えられなかったでしょうか?

もし全社員に「誠意」を発揮してほしいのであれば、会社はまず「誠意」をもって報いるべきなのです。
「北斗の拳」にも出てきたように、「仁義には仁義をもって応じよう」なんです。