隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

農学と医学の共通点と相違点

農学が好きという熱心な読者がいらっしゃるようなので、今日は私がよく論じている「医学」と「農学」を絡めて書いてみることにしました。

ま、といってもそれほど難しいことではなくて、両方とも「生き物」を相手にするという点で共通しているといえます。工業製品の仕様書や設計図は人間が作ったものです。なので、調子が悪い点があればそういうものを参考にして修理ができます。しかし「生き物」に仕様書も設計図もありません。設計図といわれるDNAがあるとは言われていますが、どのDNAがどのタンパク質の生成に関与しているか、どういうときに作動するのかと言った詳細仕様はまだほとんど明らかにされていません。

神様が作った「生き物」を相手にしているという点で共通しているといえましょう。

一方、大きく違うのは人間を相手にしているか、それ以外の生き物を相手にしているかという点です。
(農学でたくさん穀物がとれるようになったら多くの人間を養える、というマクロ的な視点はとりあえず置いておきます)。

どちらも、まあ同じ生き物なのですけど、いちおう人間は「特別な生き物」ということになってまして、死なせたり、傷つけたりするのはあまりよくないと言うことになっています。それ以外の生き物についても動物愛護法とかはありますが、植物に至っては野放図と言っていいでしょう。むしろうが、踏みつけようが、誰に怒られることもありません。(他人の畑だったら持ち主に怒られますが)。動物ではダメと言われているクローンも、植物だったらOKです。

で、まあよく知らないんですけど、農学では生命を「マクロ的」な視点で見るのだろうと想像するわけです。

どういうことかというと、たとえば100本の稲を育てていたとします。その中で、1本の稲が病気に感染したとします。当然なのですが、その一本の稲をムシります。ほかの稲に病気が感染するからです。放っておいたら全滅ですから当然の処置です。

ただ、そのむしられる稲の立場から見たらどうでしょうか?マクロ的な視点で収穫物を最大化するという視点からは、個々の稲のQoLや生命の価値などというものはなきに等しいものです。

ここで、この言葉を思い出す人もいるかもしれません。
あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が
迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、
その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる
九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
稲にしても同じことでしょう。イエスは、たぶん病気になった1本の稲のためにすべてを尽くすはずです。

そして、このイエスの寓話は何を意味しているかというと、つまり農学と医学の目標の違いを表しているといえます。

99人の健康体ではなく、1人の病人のために努力し治療しそして喜ぶ、それが医学の目的です。
99人の健康体を作るための農学とは、根本的に異なるわけです。

なので、農学をかじった人が医学を語ろうとするとき、そこに「個」という概念が登場すると言うことを見失うと、医学の根本目的と逆の方向に行ってしまう、ということです。

その結果はすでに出ていて、多くの中傷的なコメントや陰口によって、私は結構傷ついています。私の健康を損なったわけです。つまり医学の目指す方向性と逆のことを、言論の力をもってしてしまっているわけです。そのようなことをできてしまうという時点で、医学を語る資格のかけらもないということに気づいていないのが、「痛い」と思います。

彼の語る「医学もどき」の内容も、どうやら農学をベースにしたような内容でしかありません。一言で言えば「優生保護法(母体保護法ではなく、「劣悪な遺伝子を排除する」という思想のこと)」みたいな内容です。そして「自分は優生だ」と思っておられるようです(どう思おうが自由ですけど)。

昔習ったことですが、「アホというやつがアホ」です。
「ドツボにはまっているのを見るのが楽しい」とか書いていますけど、実際ドツボにはまっているのは本人の方でしょう。

賢明な読者の方々は、生温かく見守っているようです。