隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

【統合医療】「命あってのモノダネ」

先日書いた恣意的な解釈で統合医療批判する人たちと言う記事に対して「患者のQoLだなんだと言うけど、死んじゃあ何にもならないだろう、命あってのモノダネだ」と言うような批判のコメントがありました。

「医療は勝ち負けじゃない」に対して「医療は結果がすべて」、「患者のQoLが第一」に対して「命あってのモノダネ」。

しかし冷静に考えてみると、「あなた」と言う個人に「医療」が適用された「結果」は、あなた自身にしか知りえません。

過去100人中99人に効いた治療法でも、「あなた」と言う個人に効かない医療は「結果」を出せません。

したがって、「あなた」にとって医学は選択肢を与えることはあっても、「結果」を出すのはいつも「あなた」自身であり、過去の治療率の高さはあくまで「統計的なもの」、つまり単なる数字であることを忘れてはなりません。

「製紙」に関して「あなた」自身はあなたが今「生きている事」しか知りえないわけですから、自分が知りえない「死んでいる事」を想像しても無意味です。「あなた」が「生きているか死んでいるか」を議論できるのは「あなた」以外の人にしかできないことです。逆に、QoL(人生の質)は「あなた」自身にしか知りえないものです。

生死を尺度にするのが良いか、QoLを尺度にするのが良いのか、これは個人的に見たら後者しかないのです。
科学と言うものは、主観的には認知しえない「客観」と言うものを仮定して、その上に成立しているものです。したがって、個人に対して適用するにはおのずと上限があります。

だから「患者自身のQoL」を基準におくべきだと断言できるのです。

これは、私自身が「半分以上死んだ」状態を体験したため、理解できたことです。

たとえば、私は「確かに生きていた」のですけど「何をしても感動が無い、食べ物も味がしない」と言う状態を経験しています。

いま思いだしても、そういうときの記憶は「希薄」で「生きていた」実感がありません。

私ほど顕著で無いにせよ、同じ食べ物でもおいしく感じたり味がなかったりと言ったことは誰でも多少の経験があるはずです。

なので、「生き死に」と言うのは「ゼロか1か」ではなく段階があるものと私は考えています(だから多分、死んでも完全にゼロになるわけではないと思っているわけですが、オカルティックになるのでまた今度)。これを仮に私は「QoL(人生の質)」と表現しているわけです。人生とは生まれてから死ぬまでのトータルのことですから、QoLは「人生の点数」のようなものです。

いまある個人がこの瞬間「死ぬか死なないか」と言うのは、実は医学とはそれほど縁のない事なのです。死ぬ人は医療を受けても死ぬし、死なない人は医療を受けなくても死にません。以前も書いた通りです。

医療が個人にもっとも影響を及ぼすのは、「生死」というゼロイチの世界ではなく「QoL」というアナログの世界なのだと考えています。

そんなこともあって、私は「命あってのモノダネ」と言うのは、一種のスローガンだと私は思っています。

ことわざには「急がば回れ」に対して「先んずれば人を制す」のように、大抵相反する意味のことわざが存在します。為政者が手っ取り早く政策を(知的に劣る)民衆に周知させるために考案されたような性質も持つでしょう。これは、すべてのことわざが一種の「スローガン」でありうると言うことを意味しています。表の顔があれば、裏の顔もあると言うことです。

したがって、「命あってのモノダネ」にも裏の顔が存在します。

端的に言えば、残酷ではありますが死んだ方が良いと言うことが、人生においてはやってきます。何より、人は必ず死ぬ生き物なのですから、死ぬと言うのはあくまで死ぬ時期が前後すると言う事にすぎません。

無駄な延命治療を望まないのは、ほとんどの人の希望です。不幸に生きながらえるより、短くも幸せな生を送りたいと思うのが普通の感覚ではないでしょうか。

ベッドに横たわって生きながらえいずれ死ぬより、最後の力を振り絞ってでも家族のためになることをしたいと考えるものではないでしょうか。

「命あってのモノダネ」に立脚した「医学」は、そういう「個人」のはかない希望を踏みにじりはしないのでしょうか?

たとえ治療効果がまったくない治療行為であっても、患者に満足感と幸せがあれば、無駄に命を長引かせることより意味のあるものであるとは言えないでしょうか?

私は、「統合医療」とはそういう「個人のはかない希望」に光を与えるためにあるものであり、それを「科学」と言う刃で蹂躙するのは「弱者に対する暴力」ではないかと、考えています。