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隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

日本人はなぜ宗教嫌いなのか?

日本では胸を張って「私は無宗教です」と言う人が少なくありません。というか、そちらの方が多数派と言ってもいいと思います。

以前、某Q&Aサイトで回答していた時に、ちょっと面白い質問がありました。詳細は忘れたのですが、以下のような内容だったと思います。

子供(4~5歳?)に義母が宗教を押しつけて困っています
発言小町クオリティーなタイトルですが、違うサイトです。

タイトルだけ見てバアさんがエホバの証人にでもハマって困っているのかいなと思わされたのですが、この「宗教」と言うのはたとえばギフトをもらったら仏壇に供えて手を合わせるとか、そういう事をやめてくれと言いたいと言うことが後ほどわかりました。

そして、突っ込んでいくと質問者自身は(ミッション系の大学に行っていたが)無宗教だそうで、子供には「(万一)宗教をするとしても、自分で判断できる歳になってから、自分の意思で宗教を選んでほしい」と言う話でした。

私は「あなたも『無宗教』教の信者だね、息子に自分の宗教を押し付けちゃダメだよ」と突っ込んであげたら、むくれられてその後無視されました(笑)。

私から見ると、バアさんの行為はごく普通の伝統的な行いであって「宗教的行為」とは言い難いと思います。平たく言ってしまうと、この質問主(嫁)は姑が気に入らないから、子供に構ってほしくないだけのように見えます。

宗教をそんな方便に使われるのも面白くないのですが、それは別として、日本においてはそういう「ごく普通の伝統的な行い」の集大成が宗教という面もあります。これを「八百万の神」などと言ったりします(仏壇だから神じゃないとか言わないで・・・)。便所に鏡餅を置いたりするのもそうです。

そして、贈り物をもらっても仏壇に供えず手も合わせない、便所に鏡餅も供えない、感謝の気持ちを教えず「与えてもらって当然」という教育を「物心がつくまで」することが果たして子供の養育上いいことなのだろうか、と思わずにいられません。もちろん、「無宗教」を名乗っている人も感謝の気持ちがないわけではないでしょう。でも、人間は神ならぬ身ゆえ、本来感謝せねばならぬ事に対しても無頓着でいてしまうことがままあり、そういう事態を防ぐために宗教と言うプロトコルが発明されたのではないでしょうか。

宗教心と言うのは絶対者に対する畏(おそ)れの気持ちです。これは、誰もが本来持っているものです。

宗教心の濃度の高低は別として「主観がある」事はすなわち「宗教心がある」と言うことである、と言って差し支えないと思います。これは「畏れを知らない人間」が存在しないからです。

つまり、人間は生きている限り宗教しているのです。無宗教と言うことはあり得ないと言うことになります。私から見ると「無宗教」をうたっている人は「無宗教教」の信者に過ぎず、科学を信奉している人は「科学教」の信者です。

それを死んでからしか「宗教らしきもの」の登場しない「葬式仏教」の台頭により「宗教は死人のもの」という風潮が、どこからか定着してしまったのが、日本人に「無宗教」を名乗る人が多い理由ではないかと思います。

しかし、宗教心に関して言えば、無自覚的なものより自覚的なものの方が、そして体系的でないものより体系的なものの方がより優れていると言う事は、書くまでもない事かと思います。

よく「宗教者と名乗る人間が悪を行う」と言う理由で宗教を嫌っている理由にする人がいるのですが、悪事は「人間」がするものであり宗教が悪事をすることはありません。原爆は使った人間が悪いのであってアインシュタインやハイゼンベルグが悪いわけではありません。Winnyを悪用した人間が悪いのであってWinnyの開発者は悪くないと最高裁判所も言っています。それと同じことです。

人間がよく犯しがちな間違いで、ちゃんと宗教を勉強すればそういうことも分かるはずなのですが、宗教は悪しきものと勉強もせず決めつけ、ろくに勉強もしないのに排斥しようと言う人を見ると、本当の意味における「思考」と言うものの教育があまりにも不足しているのではないかと思わずにいられません。

もっと、宗教に興味を持ちましょう。