読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

【統合医療】命は絶対大事?

最近の日本では「命が絶対大事教」が相変わらず、それこそイスラム圏におけるイスラム教やヨーロッパにおけるキリスト教以上に権勢を誇っているのだなと思わずにはいられません。

対象が乳幼児や子供の命になると、さらに無謬的にこれを絶対尊重すべきものとする「宗教観」が色濃く表れてきます。例をあげるまでもありませんが、NATROM先生の吉村医院における事例の紹介や、最近あった中絶に殺人罪を!と言った事例、そしてエホバの証人輸血拒否事件などがそういった実例です。

これがもし老人なら「尊厳死」とかの議論も出てくるのですが、とにかく歳が小さいと「絶対無謬」になってしまいます。赤ちゃんは、健康に産まれればそれでよい。子供は、すくすくと育てばそれでよい。なぜなら、絶対大事なものだからだ、とくるわけです。

ちょっとでもそれにケチをつけようものなら、たちまちのうちに干されそうな勢いなんですが、私は老人も赤ちゃんも「明日死ぬかも知れない」と言う点に違いはないと思います。ま、これは西本願寺のお坊さんの言葉の受け売りですが。

さて、なぜ日本人は「命が絶対大事なもの」と思っているのでしょうか?私は明確にその理由を知りませんが、宗教的な刷り込みを感じずにはいられません。どこかに、思考停止があるのです。

たしかに、命はかけがえのないもの、それは事実です。あなたの命は、替えがききません。

しかし、かけがえのないものは絶対大事なものと言うには、もしこれを論理的演繹だと言うのであれば、大きな飛躍があると言うことに気づかなければなりません。

たとえば、あなたが昨日に愛車を近所の電柱にこすりつけたときにできた不名誉なバンパーの傷があります。それだって「かけがえのないもの」には変わりがありません。しかし、あなたは今日にでも修理屋さんに電話して、それを消そうとするでしょう。

かけがえのないものであっても、必要なものと不要なものがあるなんてことは、禅宗で修行しなくたって気づいてあたり前のことです。

では、なぜ、それが必要なのか、と言うところまで踏み込まない事には、かけがえがないと言うだけで絶対大事と言うことには、どうしても埋めきれない穴があるのです。

さて聞きます。なぜ「命は絶対大事」なのか。
胎児の命は父母の自己満足より優先されるのはなぜなのか。

私の知る限り「命が絶対大事教」の人で、これに答えられた人はいません。
せいぜい、「オマエはそんなこともわからないのか、バカが」とでもいうのが精いっぱいでしょう。
結局、麻原彰晃を何より大事とする、オウム真理教と本質的に何も変わりません。

キリスト教では、人間の、人間だけの、命が大事だと教わります。
人間は、すべての生き物の頂点に立つべき存在だからと言います。
なぜ大事か、それは、神がそう決めたからです(と言っても教わったことはないので正確には知りませんが)。

仏教では、人間の命が大事とは教わりません。ただ、他の生を殺すことは戒律を犯します。
殺してはいけないと言うだけで、それが大事とは言っていません。
また、他生を殺した人間であっても、出家と修行によって最終的には成仏への道が残されているとされます。

もし今妻が妊娠していて、帝王切開しないとヤバいと言われたとします。
私は、帝王切開してもらうでしょう。それは、私が、私自身が、妻も子も健康でいてくれるのが一番うれしいからです。

児の命が大事とかクソとか関係ありありません。私がうれしければそれでいいんです。

しかし妻がどう思うのかは妻にしかわかりませんし、産まれてきた子がどう思うかもわかりません。

子供が、帝王切開で生まれたことを将来的に差別される可能性も皆無とはいえません。帝王切開が思わぬ障害を誘発する可能性も皆無ではありません。

だから、総合的な観点からみた場合、帝王切開がベストと言うのはどこまで行っても言いきれないと思います。
そういう深い洞察もなく、ただ機械的に判断するのがいい医療と私には思えません。

ただ、どのような判断があったとしてもそれはあくまで「私」のエゴですし、医師のエゴもあるかもしれませんし、妻のエゴもあるかもしれませんし、児のエゴもあるでしょう。最近の周産期医学では、児にも「産まれる気」が無い限り産まれないと言われています。

児の命が大事とか、児に罪はないとか、そういう幼稚な理論になっていない理論は、もういい加減やめにしましょう。それは、理論ではなく、稚拙な宗教なのですから。

そして、「命が絶対大事教」の呪縛から解き放たれた時、人は死んでもいいのだと言うことを知ることができます。
正確には、生とか、死とか、そういう観念そのものが無意味であると言うことが分かります。

おまえの命は絶対大事だから死んではいけないんだ!

そういう無神経なセリフに、どれだけの人が傷付けられたことでしょうか?

そうした本当の意味での自由を実現するのが医療のあるべき姿であり、そしてそれを私は「統合医療」と呼んでいます。

死ぬことを助けるのも統合医療の一部なのです。「命が絶対大事教」の信者に任せていても、尊厳死の問題が遅々として進むことが無いのは、必然なのです。

一皮むけることを、拒んでいる人たちによって、医療の発展は遅滞せしめられていると、私はそう感じています。