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隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

「思う事」はすなわち「思い」ではない

以前書いた女性の社会進出は失敗だったと言う記事で「社会進出したいと言う女性の『思い』はどうなる?」というブクマコメントがあったので、今日はそのことに触れてみたいと思います。

と言っても一言なのですが「社会進出したい」と言うのは一概に「思い」にはあたりません、と言うことです。

私が自然分娩にこだわる母親の「思い」と言う文脈で用いた「思い」と言うのは、つまり「正しい『思い』」のことを指しています。「正しい思い」というのは、その思いに対して心の中になんの反論も生じない思いのことを言います。

「社会進出したい」と言うのはつまり功利的なもので、「社会との接点を持ちたい」「給料を得たい」「楽しい仕事をしたい」といった欲求に基づいてなされています。根源的な欲求として「社会進出したい」と思ってはいません。端的に言うと、これは「思い」ではなく「欲求」と表現するのが正しいことになります。

一方で、母親が自然分娩にこだわるのには功利的な面がありません。マザーテレサが、死にかけている人に希望を与えたいと考えた「思い」と似ています。こういうものを「思い」と呼ぶのです。

このように「思い」と「思う事」を混同している人が、吉村医院の例をトンデモ医療とかインチキ医療と揶揄しているのかもしれません。

分かりにくいことを書きましたが、心に「思う事」を「思い」と言うのであれば、「殺人したいと言う『思い』」とかいう表現も成立することになります。そんな「思い」はイラネー。こういう極端な例はあまり用いたくありませんが、端的に違和感を表現するには便利ですね。「彼ら」が多用するのもうなづけます。

もちろん「思い」に当たる「社会進出」も中にはあるでしょう。しかし、それは全体のごく一部でしょう。

私が問題として指摘しているのは、そういうごく一部の人さえしてればよかった「社会進出」を社会現象にまでして、望んでいない人にさえ強いてしまったことです。