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隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

アホと言うやつがアホ?

どうも、現代の人には「無知の知」とか「悪人正機」とかよりも、こっちの方がなんとなくしっくりくるのかなと思ってこのようなテーマで書いてみます。

私が愛読している「バッタもん日記」で、locust0138さんと以下のようなやり取りがありました。記事の内容を否定するつもりはないのですが・・・

元記事
EM菌・米のとぎ汁乳酸菌の信者に欠けている物
だいぶつ アホがいるからカシコの価値も出てくる。全員がカシコだとカシコの価値がない。自分より劣るアホくらいきちんとコントロールして社会をまわしていくのがカシコの義務でしょう。
locust0138 アホは人の言うことを聞かないからアホなのですよ。貴方のように。
なるほど、と思いました。

つまり、locust0138さんの定義上は「人の話を聞かないやつ」がアホであるとなっています。したがって、アホにはどのような高説を聞かせてもまさに馬の耳に念仏、豚に真珠。話す意味はないと言うことになります。

でもそうなると、カシコがアホにものを分からせることは理論上不可能。すべての教授とか教師とか、全員自己満足の存在。つまり、研究とかしても自己満足で社会的な意味はない。ヒッグス粒子を見つけても税金の無駄遣い。そういうことになるのでしょうか。

言ってしまうと、アホには何を言っても無駄である。したがって、陰で(効果のない)罵倒を書き綴ったり、愚痴を言ったりするしかないのだと、そういうことですね。でも、人口の過半数を占める(であろう)アホに分からない事を書く価値って、あるのでしょうか?

まあ、確かにたまにいる爆音マフラーで公道を他人の迷惑も顧みず走り回っているクソバカどもを見るとそういう風にも思います。

ただ、果たして「アホ」に更生余地はないのでしょうか?また、彼自身が彼の定義する「アホ」でないと言う自信はどこからきているのでしょうか。

確かに、もしかしたらアホはこの世からいなくなった方が社会のためなのかもしれません。

でももしそうなったら、残ったカシコ同士の間にも序列が生じ、やはりまた「アホ」は作りだされるでしょう。アホかカシコかなんて、所詮程度問題です。ユング心理学の本に書いてありましたが、あらゆる組織からトップエリートばかりを集めて新しいチームを立ち上げると、なぜかその中にもやはり落ちこぼれが生じてしまうそうです。

人間は無意識のうちに自分が必要とされている「役割」を演じていると言うのがユング流の解釈だそうです。

それよりも、「アホ」にも分かる(分かったように思わせる)「方便」を産み出す方が、科学者としては劣っているように見えても人間としては優れているように私には感じます。

だからこそ、アリストテレスやダビンチより、仏陀やキリストが崇められるのではないでしょうか。

仏教の説話にこういうものがあります。

キサーゴータミーという母親がいました。彼女には小さな娘がいましたが、疫病で死んでしまいました。
そこへ仏陀が通りがかりました。キサーゴータミーは懇願します。娘を蘇らせてくれと。
そうすると、なんと仏陀は「ああいいよ」と言ったのです。さすがに仏陀と言えど、死人を蘇らせられるはずもありません。「その代わり、一粒でいい、芥子粒をもってきてくれないかい?ただ、その芥子粒は、今までに一人も死者を出した家のものでなくてはならない」。
キサーゴータミーは必死になってすべての家を廻って聞きます。お宅では死者が出たことがありますかと。すべての家で答えは「死者が出たことがある」だったのです。
いくつもの家を回って、そしてすべての家で死人が出ていること・・・つまりすべての人が愛する人と死別するという「愛別離苦」を味わっていると言うことを、思い知ったのです。
はたして、キサーゴータミーは冷静さを取り戻し、娘が死んだことを受け入れることができるように、仏陀に帰依を申し入れました。仏陀は快くそれに応じたと言う事です。

いつの時代にも「アホ」はいます。だからこそ、それを救える人間こそが真の高潔と言うべきでしょう。