Twitterで私のつぶやいた一言が、存外に反響を呼んでいて面白く感じています。
@daibutsuda Aとは、Bと言うことではないが、Bと言うことである」と言うことが、実は世の中の大半を占めています。般若心経とかには、そう書いてありますよ。
はてなブックマークの反響
残念ながら私の創作ではありませんが、これは昔から言われていることであります。そして、驚くべきことにこの話は論理的に見ても無矛盾なのです。
「ちょっと実例あげてみて欲しい気もしないでもなくもないこともない」
と言うコメントがありましたので、簡単に実例をあげてみます。
・人間は死ぬ。
・人間は死なない。
両方とも、論理的に成立しています。
人間は死ぬ、と言うことは理解できても人間は死なない、と言うのは理解できない人は、「千の風になって」という歌を聞いてみてください。死んだ人が「死んでなんかいません」と言っています。
もうちょっとわかる例で言うと、死んだ人間には「死んだ」という感覚もなくなるはずです。産まれる前の事を覚えているでしょうか?その状態に戻ると思えば、死んだ後は苦しみも何もない静かな世界になるわけです。もし何らかの感覚があるならそれは「死んでいない」と言うことになります。「死んだ」という主観を知覚する存在がいない以上「人間は死なない」もまた事実なのです。
突き詰めて考えると「死んだか死んでないか」という二拓で考えること自体がナンセンスであると言うことになります。シュレーディンガーの猫が死んでいるか生きているか、最新の「超ひも理論」では「宇宙全体の『ひも』の状態を知らない限りわからない」と言うことになっているそうです。最新の物理学が太古の宗教的思考を認めた形です。
つまり「死んだか死んでないか」という状態仮定そのものを見直す必要があると言うことでしょう。
科学的議論と言うのは、こういうもの(禅問答)も含みます。もちろん、コメントでも指摘されている通り般若心経に書かれているし書かれてもいないと言う事も当たっています。般若心経もそれ自身への否定をしています。だからそれを読んだ人間が考えろ、と言うことなのでしょう。
A=BかA≠Bのどちらかしかあり得ない、と言うのはブール演算で考えだされた概念(=方便)であって、とても優れた理論ですし、そう考えると都合がいいことも世の中にはたくさんあります。たとえば食べ物であれば「美味しい」か「美味しくない」かという2拓が成立するかもしれません。
しかし、そうではないことも世の中にはたくさんあると言うことを心にとどめておくべきでしょう。
特に人体には、ブール演算のような科学的手法は馴染みにくいのではないかと言うのが、現時点における私の感想です。NATROM氏も「現時点でのベターな選択肢」と言っておられる通り、決してベストとは言えないことは確かです。
じゃあどうやればベストの手法にたどり着けるのかと言うと、理と知以外のものをもっと積極的に認めると言うことでしょう。プラセボ効果の話を取ってみても、薬の開発者はプラセボ効果をいかにして実験結果から取り除くかと言うことしか考えていませんが、ホメオパシーや漢方医のようにプラセボ効果をもっと活用する方向は検討できないのでしょうか?
町医者レベルでもプラセボ効果を活用している医師は見かけますが、医学会レベルになるとプラセボ効果は単なる「雑音」として片づけられてしまいます。
なので、理と知のみで人体を極められるように誤解している人に対しては、忠告せずにはいられません。それが、一通りの科学的手法を学んだ上で、オカルティックなものもそれなりに勉強し、自分自身病気になっていろいろ試して10年以上もやってきている、私の率直な意見です。
そういった意見を素直に受け入れられる人は、良い医療者・治療家と言えると思います。