隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

【統合医療】敵は標準医療にあらず

「国際統合医療学会」が「国際個別化医療学会」に名称変更したそうです。

私は、たとえば「部落」を「同和地区」、「子供」を「子ども」、「障害者」を「障がい者」のように、表面上の言葉を置き変えてどうこうしようと言う向きはあまり好きではありません。

それはつまり「その物事の本質的な部分を変えることは不可能だから、表面上に変えられる部分だけ変えましたよ」という宣言に等しいからです。

「障害者」を「障がい者」に変えたところで、障害者差別はなくなりません。むしろドヤ顔で「オマエらデキソコナイのために『害』を『がい』に変えてやったぜ」と言われることの方が、実際の障害者はムカつくんじゃないかと思います。

これまで、いろいろと「標準医療側」とされる方の話を聞いてきて、ひとつ分かった事があります。私の「敵」は「標準医療」ではないと言うことです。

これは、多くの「統合医療」推進論者が同様に陥っている誤謬ではないかと思いますので、あえてこのことを取り上げてみることにしました。

考えてみれば、標準医療も統合医療も、ただの「ことば」にすぎません。「医療」という、人を病苦から救うと言う方向性に何の違いもありません。だから、お互いに攻撃し合う理由はないのです。反省すべきは「医療」の名のもとに行われる人間存在の軽視でしょう。

それは、標準医療側にもありますし、統合医療側にもあるでしょう。問題は、「医療」の犯した過ちに対して、「それは統合医療側がやった事だから」「それは標準医療側がやった事だから」と、なすりつけの温床を生むことです。

吉村医院の新生児死亡例でいうなら、標準医療側は「それ見たことか」という意見、同じ医療者としての反省はありません。むしろ「俺たちに任せておけばよいものを」と言うおごりを感じます。

一方、抗うつ剤の多量処方による自殺事件やリタリン中毒事件。身近な例では高コレステロール血症に対する、RCT的に効果の無い薬の処方。PSAと言った有意に寿命を延ばさない検診の蔓延。統合医療側は「それ見たことか」と言う意見、同じ医療者としての反省はありません。むしろ「俺たちに任せておけばよいものを」と言うおごりを感じます。

私の目指している統合医療は「正しい医療」のことを意味していますから、その言葉にこだわる理由はないのです。あえて言うなら、前も書きましたがこれはスローガンなのです。「尊王攘夷」「富国強兵」「所得倍増計画」と同じ類の言葉です。誤解を恐れずに言うなら、医療の世界に明治維新を起こしたいわけです。そのためのスローガンです。

ハッタリと言う意味では「個別化医療」は「統合医療」にかなり劣るでしょう。そういう意味では、この名称変更はどうなのかなと言う気はします。

まあそれは置いておいて、現在の標準医療にももちろん役立つ部分はたくさんあります。私もこれに救われてきたこともあります。しかし、だからと言って「より良い医療」を目指す努力を放棄していいと言うことでもありませんし、また「標準医療」ないしは「西洋医学」を礎にする研究のみが医療を発展せしめると言うこともありません。

違う面から「医療」に光を当て、より統一性のある医療を目指す方向性、そのスローガンが「統合医療」なのです。だから「標準医療」という旧い「スローガン」を一新させるというのが目的であって、それは敵ではないのです。