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隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

知りたいことは大方調べれば分かる時代

最近、ネットで何でも調べられるようになって、たとえば株価とかレートとか、一昔前なら日本経済新聞を取らないとわからなかったようなこととかでも、瞬時に分かるようになってしまいました。

まあネットに造詣の無い人はあまり調べないし調べられると言うことも知らないと言うことも事実なのですけど、なんにせよ情報の寡占が難しい時代になってしまいました。

私は小学生のころは良く百科事典で読んだ知識をひけらかして「博士」と呼ばれたりしていましたが、今では「Wikipediaで調べたらいいじゃん」となってしまいそうな気がします(それでも、たまにWikipediaで読んだ知識をひけらかしたりしていますが(笑))。

私も現時点で分かっている統合医療の知見をいろいろと書こうとは思っているのですが、まあ調べればだいたいの事はネットで分かるようになってしまっていて、「私自身しか知らなくて、それでいてみんなの役に立つこと」がそれほど見当たらないので、それほど書く意味はないのかなと言う気もしてきています。

むしろ、現在の流行りは「ここにこのような情報がある」という「ポインタ」を共有し合うと言うところにあるように思います。ブログという媒体はあくまで個人的な情報発信にすぎませんので、実質的には2ちゃんねるの投稿とほとんど差がありません。しかし、Twitterやfacebook、最近ではLINEと言った「つながり」をもつ媒体で、たとえばよくリツイートされているような情報は「正しいか否か」は別として多くの人の共感を得たと言うことですので、より信ぴょう性が高まります。

このリツイートやシェアの頻度によって、情報の信ぴょう性を測れるようにすると言うのが現在のインターネットが向かっている方向性のようです。

さらに最近では「まとめ」サイトで、一連のツイートがまとめられて読みやすく整えられたりします。良くまとめられているツイートをする人の情報は、信ぴょう性が高まっていくと言うことになります。

こういうソーシャル的なコンテンツの評価システムがどんどん進歩してゆくことによって、あえて言論統制をする必要はないネット社会が徐々に実現されて行くのかな、と思っています。信ぴょう性の無い情報や悪意の情報は、リツイートやシェアされないので、おのずと誰もアクセスしないという方向性に行くわけです。

なので、今までは「私自身しか知らなくて、それでいてみんなの役に立つこと」を書くと言うのがホームページやブログといった媒体で情報を公開するときの一種の作法だったわけですけど、むしろ今は「私しか知らない事」をネット上に公開すること自体に意味が出てきているのだと思います。

たとえば、私は通勤路上で綺麗な夕焼けを見たときに写真を撮ってfacebookにアップします。夕焼けの写真なんてプロの撮った綺麗なものがゴロゴロしているわけですけど、「その時その場にいたのは私だけ」なのですから、その夕焼けの写真はこの世でただ一枚のものです。そこそこ良く撮れていれば思ったより多くの人に「イイネ!」してもらえたりします。

統合医療の知見にしても同じことで、多分科学的な体系にして学者(脳)の人に納得してもらえるようなものを書くのは多分難しいのでしょうし、私自身確証のある情報と言うものはないのですけども、こういうネットの潮流によってブラッシュアップされたり、私自身新たな知見を得たりと言う事がどちらかと言うともともとある私の願いでもあります。

思えば選挙と言うのもそういう思想に基づいているのだと思いますが、1票の格差や、AKB総選挙を見ても分かるように「操作可能」な選挙と言うものは正しい結論を導かないことがままあります。経済(お金)なんかは一種「操作不能、ないしは極めて困難」な一種の選挙ではないかと思います。こういう仕組みが、ネットのコンテンツに対してもバイアスを与えつつある、と言ったらいいのでしょうか(評価経済社会、とか言いますよね)。

だから、これからも恐れずに、自分が思ったことを情報発信していきたいと思います。