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隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

裁判は例外中の例外

いろいろと裁判(民事訴訟法)の勉強をしてきたのですが、結論としては裁判というのはとても例外的な特殊な紛争解決方法であるということが分かりました。

裁判をしようと思うと、裁判所に「証拠」の提出を求められます。裁判官は、訴えた人(原告)、訴えられた人(被告)の両方から提出された「証拠」のみに基づいて判決を下します。(証拠主義)

証拠がなければ、仮にそれが公然とした事実であっても裁判官は無視します。そういう場合は、それを証拠として採用してほしい側がそれが「公然とした事実」であることを立証する必要がある(立証責任)ということになっています。

立証責任は基本的に証拠を提出した側にあります。たとえば、「低周波音で被害が出るのは社会一般的に常識である」と言う主張をした場合、それを立証する必要が主張した側に生じます。立証できなければそれは証拠としては無視されます。

極端な例でいえば「殺された側」は「殺された」ことを立証しない限り、殺されていないと扱われるわけです(死人に口なし)。

逆に言うと、裁判に勝てるということはそういった立証可能な証拠をいくつか持っているということを意味します。
したがって、被告がよほどアホでない限り(少なくとも弁護士なら)、裁判をしなくても勝つか負けるかはおおむね判断できるのです。

なので、法律に疎い本人同士の争いならいざ知らず、どちらかにでも弁護士が入っていれば無用な法廷闘争は発生しません。弁護士倫理規定でも、勝つ見込みのない訴訟を起こしてはいけない(起こすと訴権の濫用とされる)ということになっています。

ただ、放射能騒ぎでも話題になりましたが、客観的事実が学者(裁判になると「鑑定人」として陳述することが多い)の間でも意見が分かれるような事案に関しては、やっぱり裁判になります。

この場合「事実関係」を争う「事実審」となり、裁判は長引くそうです(最低でも数年)。

結論として、裁判というのはアホのすることなのです。

「逆転裁判」のように、係争中に決定的な新証拠が出てきて判決がひっくり返るなどと言うのは、例外中の例外中の例外です。

それは、宝くじに当たるよりも割が悪く、それ以上の経済的利益を得られる可能性は極めて低いものとなります。

それを敢行する人は、つまりお金ではなく大義のためにやっているのだという見方もできるかもしれません。

裁判によらずとも、当事者間における示談、第三者を介した仲裁・調停などといった解決手段が用意されており、裁判に比べるとスピーディーに結果が得られることも多いです。