隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

バカの後講釈

私は、人間というのは元来善良なものだと思っていました。

というか、多分今でもそう思っています。

ところが、この歳になるといろいろと騙されることが多い。

あからさまな詐欺に引っ掛かった事は多分ありませんが(準強盗に遭ったことはある)、一番ありがちなのが「この値段ならこの程度の性能があって当然だろう」というものに期待したほどの性能が無い、というパターン。

昔は「お客様は神様です」と言って、客が後から「これはおかしいんじゃないのか」とクレームをつけると、熱心に対応してくれたり場合によっては交換や返品に応じてくれたりしたのです。

ところが、最近では「自己責任」とか言い出して、それを選んで買ったのはオマエじゃないか、と売主が開き直るパターンが急増しています。

不良品を売っておいて「それを選んだのはお前だ」というのも盗人猛々しいにも程があるのじゃないのかなと思うのですが、実際そういうケースがまかり通っています。

法律でも瑕疵担保責任とかいろいろ取り決めはあって消費者を保護するような理念もあるにはあるのですが、原則論で言えば売り主の方に法的には利があります。

民法の理念に契約自由の原則というのがあって、要は2者間で取り決めればどんなものでも有効であると言うことです。

なので、不良品を貰ってそれに対してお金を払った時点で売買契約(双務契約)は完結しており、返品に応じる義務はないと言うことになります。

不良品であると言う事を証明する義務は基本的に消費者にあり、不良品であることを証明できない限り限りなく疑わしくても不良品ではないと言うことになります。

例外的なのは製造物責任法(PL法)で、これは製造者が製品に「瑕疵が無いこと」を立証できない限り瑕疵があるとされます。無いことの証明は極めて難しいので、実質的に何か問題が起きたら製造物に責任があるとされると言う、メーカーにとってはとても厳しい法律です。

たとえば、火事が起きたときに「オーブンから火が出た」と証言があったとしたら、オーブン以外の火種を探しださない限りオーブンが原因と言う事でオーブンのメーカーが責任を負うわけです。

しかし、このPL法は日本では適用範囲が極めて限らてれていて、ごく一部の製品のみが対象です。

仕方がないのでいろいろと論理的に商品が不良品という事を立証することになります。

最初から買わなければこんなことにならなかったのに、バカ(ないし不運)がゆえに不良品を買ってしまい、必死で法律や論理を勉強し立証責任に追われる様は我ながら滑稽だなと思わずにいられません。

しかし、こういうことが増えていくと結果的には何も買えなくなって不景気になってしまいます。

現在の行政は業者保護です。これはハッキリしています。消費者が訴訟を起こしても勝てる可能性は極めて低いのが悲しいですが現実です。これは司法(裁判所)も行政に寄っているからです。

平たく言うと最高裁判所裁判事は内閣総理大臣が決めます。若い判事は内閣の覚えがめでたくなければ最高裁判所判事にまでのぼりつめられません。だから、司法は行政寄りになります。

ま、大岡越前気取りの判事もいないことはないでしょうけど。

大岡越前は、今でいうところの三重地裁の判事を以前やっていた。そして、三重県民と和歌山県民の間で抗争が起こった。大岡越前は、公平な判決を下した。和歌山県は将軍御三家の一つなのに、それを意に介さず公平な裁きを下した手腕に、そのころ和歌山県知事だった徳川吉宗は感心し、後に江戸町奉行および政策指南役として重用した。
もちろん、大岡越前は徳川吉宗の期待に応え、吉宗の指示に従わない政策も遠慮なく進言したと言われる。
たとえば、享保の改革は基本的には倹約令だが(おかげで不況からデフレスパイラルになって景気が悪化したのはよく知られている)、大岡越前は大胆にも量的緩和政策(小判の品質を落として貨幣の流通量を増やした)を進言し不況を打破したと言われる。

行政は景気が悪いからと言うことで業者を保護しようとします。

業者保護は、行きすぎれば詐欺商法をも容認することになります。

それが回りまわって、人々がものを買わないと言う事態に結びついていると思います。

たとえば、家を買わずに賃貸でいいと言う人は、この10年でずいぶん増えたと思います。

行きすぎた業者保護は単に利権を生むだけで、景気を改善しません。

というのも、バカの後講釈なのかもしれませんけども。