隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

A=B、B=CならA=Cを考えるのが科学なら、A=Aである理由を考えるのが哲学

数学の最初の方で勉強する有名な定理に

A=B,B=CのときA=Cである

というものがあることはよく知られていると思います。
このようなルールを定めて、論理的に「確からしい」ことを追求していくのが「演繹」(えんえき)と言われる数学的な方法です。

一方で、過去にあった事例をたくさん集めて、AのときBが起きる確率が99%だと言うようなことを調べて「AのときBであることは確からしい」とか言っちゃうのが「帰納」というもう一つの論理的メソッドです。

「帰納」と「演繹」、この2つの論理的メソッドで「科学」というものは成立していると言われています(ちなみに、数学的帰納法は実は演繹手法なので、わざわざ「数学的」と断っている)。

一方で、「哲学」というものはA=Aである理由を考察するものだと思っています。

たとえば「だいぶつ」という存在はありますが、「だいぶつ=だいぶつ」でしょうか?

実は、今のだいぶつは数分前のだいぶつとは厳密には違います。体内の水分量とか測ればすぐ分かることですが、人体というのは常に変化していくものだからです。

じゃあいったい「だいぶつ」なんて始めから存在しないんじゃないのかという疑問も生じてきます。

実はそうだと思うのですけど、それがつまり「生きる」という事です。

このように、科学至上主義者が陥りがちな罠「だいぶつ=だいぶつ」に決まっている、という思考停止状態から、本当に「だいぶつ=だいぶつ」なのかという疑問提起をすることによって、生命の本質に近づく考察を出来たことになります。

個人的考察においては、もちろん論理的な技法というのはある程度重要な事には違いないのですが、この自分自身のもっている「感覚」というものが何より重要です。というか、それがすべてであると言っても過言ではありません。

便利な道具を手にしたらそれを活用したくなる気持ちは分かりますが、本当の知の追求のためにはその道具を一度手放してみる努力をすることもまた必要です。