隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

始めにイデオロギーあり

さて、死にかけて以来いろいろと俯瞰して物事を診る努力をしてきました。

分かったのは、始めにイデオロギーがあると言うことです。

イデオロギーというのは主義主張のことであり、たとえば「科学は正しい」「インチキ医療は悪である」「体罰は悪である」「戦争はいけない」「富を独り占めしてはいけない」といった主張はイデオロギーです。

イデオロギーというものは、それ自体が善か悪かという概念をもちません。

というのは、ある人にとって有利なイデオロギーは別の人にとって不利なイデオロギーとして働くからです。

簡単な例で言うと「公務員は国のために働いているのだからもっと優遇されなければならない」というイデオロギーがあったとします。

これは、公務員にとってはトクなイデオロギーですが公務員以外の人にはソンなイデオロギーです。

一般的に、人は自分が得するイデオロギーを肯定してもらいたいと考えています。

上記の例で言えば、公務員は「公務員は国のために働いているのだからもっと優遇されなければならない」というイデオロギーを肯定してもらいたいと考えています。逆に、非公務員は「公務員は国に身分を保障されているのだから低待遇でも我慢して滅私奉公せねばならない」なんていうイデオロギーを肯定したいと思うようになります。

そして、イデオロギーを肯定してもらうもっとも簡単な方法は、「誰もが無意識に納得するようなことを主張する」ことです。

暴力反対とか、戦争反対とか、原発反対とか、そういう主張は多くの人に支持を得やすいです。

その次によくつかわれるのが、科学や論理を傘に着てイデオロギーの押し付けを行うと言う方法です。

たとえば、先に取り上げたエントリでNATROMさんは「体罰の会」のイデオロギー「教育に体罰は必要」をまず否定しますが、最後にさりげなく「ハトのような攻撃力の低い動物を狭い空間に閉じ込めると弱い個体は酷いいじめに遭う」という例を取り上げ、私には以下のような主張をしているように読めます。「人間も攻撃力の弱い個体なのだから密室性の高い空間に閉じ込めれば弱い個体が悲惨ないじめに遭う」。

読者の多くは、リンク先を見ることもなくああなるほどなと思う事でしょう。うっかり、私もそう思ったくらいなのですから。

ですがよく考えたらいろいろ違います。まず、人間はハトの様に攻撃力の弱い個体なのかという疑問。そして、人間には高度に発達した脳があるがハトにはチープな脳しかないと言う事実。そして、NATROMさんのエントリーの主題は人間に動物行動学をあてはめてどうこうというのはどやねんという事だと思うのですが(そこだけは私も同意)、当の本人が最後に動物行動学的な事実を引用して体罰やいじめ問題に対する自分のイデオロギーをさりげなく主張している点。

そこに見えてくるのは「イデオロギーの対立」です。そして、両者に欠けているのは「現場力の不足」です。端的に言えば「体罰の会」もNATROMさんも机上の空論をしているに過ぎないのです。実際に若い子たちがシバかれている現場を目撃したわけではない。「体罰」という言葉の定義も不明瞭なまま、空虚な議論が続きお互いの対抗意識はエスカレートしていきます。

最終的にNATROMさんは「勝つ」かもしれません。「体罰の会」のサイトは閉鎖されるかもしれない。今までも、彼はそうやって多くのサイトを閉鎖に追い込んできたのですから。でも、それっていいのですか?それで「体罰の会」のイデオロギーが雲散霧消するなら良いですが、そんなことはあり得ません。

実際、アメリカが「テロとの戦い」というイデオロギーを全面的に打ち出したせいで、多くのイスラム圏の善良な人々や連合国の兵士が亡くなりましたし、最近の例で言えばアルジェリアでテロに巻き込まれて日本人も犠牲になっています。これはアメリカが「テロは悪」というイデオロギーをゴリ押しし、本来関係ないイスラム圏の人たちを巻き込んだために起きたことです。それでテロは根絶できたのかというと、ぜんぜんできていません。

「囚人のジレンマ」で有名な非均衡ゲーム理論を産み出したアメリカの所業と思えないほど劣悪です。悲惨な出来事は、無意味なイデオロギーの対立によってのみ生じるのではないかと、私は考えています。

よく「宗教こそ諸悪の根源」とかのたまっている中二病の人がいますが、私に言わせれば個人が自由に宗教を選べると言う権利すら受け入れられないような狭量な人間(つまりその人自身)の存在が信仰心のある人を追い詰め、暴発に追いやっているのです。

現代は中世に比べ思想的にも進化しているんだとするなら、一方的なイデオロギーの押し付けがどのような結果を生むのかくらいは知っておいてもよさそうに思います。

インターネットの発展によって情報が一気に拡散する時代になったからこそ、昔のような「論理と説得」ではどうしようもなくなりました。始めにイデオロギーがある。西洋社会では次に説得がありました。だから、「土人」の住む植民地には宣教師を送って「布教活動」を行いました。これはイデオロギーと説得という名の押し付けです。

しかし、今の時代は違ってきていると思います。イデオロギーの次に来るべきもの、それは「感覚と受容」であるべきだとだいぶつは思っています。