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隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

ネット上の議論に意味はない

最近、ネット論壇ではネット上の議論についての議論が盛んです。

私は心の病に倒れ強制的に「ネット絶ち」状態となり回復してから、ネット上の議論は意味がないと思うようになりました。
なんでそういう風に思うようになったのかはわからないのですが、逆に言えばそういう風に思えるようになったから回復したと言う逆説的な見方もできます。
で、このブログは今まではそういうオチで終わるのが一般的だったのですが、今回はたまたま腑に落ちる話があったのでそれを引用してしまいます。

時期はずれの実存主義(4) より

西洋近代思想は一因一果説を採用した。実際には複雑に因果関係が絡みあっているのだろうけれど、他の原因をすべて一定にしておいてから、ある一つの原因だけに注目して、それが変動することで、結果がどう変動するかを見る。ところが、仏教の因果論は、二因一果なのだ。すなわち、個人の内部にある因と、外から来た縁が触れあって、個人の内部に果を作り出す。

つまり西洋思想では「原因と結果」しか見ないけど(しか見ないわけじゃなくて単純化した方が高度化しやすいという判断がどこかでなされたんだろうけど)、東洋思想では原因は「因と縁」に分けられるのです(これが「因縁(インネン)の教学」ですね)。
それで、相対性理論や量子力学のような二因一果的な思想観でもって見た方が理解しやすい概念を、西洋思想的な教育を受けた人は理解に苦しむのでしょう。

昔から仏教思想になじんできた自分としては違和感がないのですが、西洋思想に基づいて構築された学問(つまり科学思想の大半)を長年やってきた人にとってはなじみが悪いのかもしれません。学校の勉強を極力サボってきた私にその影響が及びにくかったのもそのせいかもしれません。(もっとも、最近では仏教というよりチベット哲学に真理に近いものがあるような気もしています)。

因と縁と言うのは、因が内在的なもの(他者に知覚できないもの)で、縁が外在的なもの(他者に知覚できるもの)です。上記のURLの例にもある通り、「ある人が空腹であるときに」が因、「レストランのショウウインドウにオムレツか何かを展示してあって」が縁です。そして「中に入って食べることにする」が果です。

ネット上に存在するのはすべて「縁」と「果」のみであり、「因」を無視しているから(無視しているわけではないが、ネットは「因」を伝える能力を持っていないから)、ネット上の議論は荒むのです。

そう考えると、「ネット上の議論に意味はない」と結論した自分の感覚も納得がいきました。そして、自分のやりたいことはこの「因」の部分をどれだけネット上に持ってこれるのかというところなのだと言うことも自覚できたわけです。

とは言え、実際には「悪貨は良貨を駆逐する」で、「縁」議論巧者に「因」論を語っても駆逐される(「縁」論で覆い尽くされる)が落ちなのですけどもね。

逆に言えば、一因一果的な西洋思想にネットはピッタリマッチしていて、西洋思想にハマっている人はネットをせっせと活用して一因一果的な思想の拡大に余念がないようではあります。

しかし、だいぶつとしましては、そういうネット論調には全力で「違和感」を表明してまいります。