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隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

父を超えたいと言う思い

父は私が27歳のときに亡くなりました。アル中で肝硬変を患っていました。

父が死んだとき、私は父が「無念の死」を遂げたと思っていました。そして、私こそは父の「本懐」を果たすべく、立派に生きて、父が産まれてきた甲斐をこの世に結実させるのだと、思ったものです。

私こそ、立派な人間であり、父のような愚かな人間は、私という立派な人間を産み出すために存在した「捨て石」のようなものであると、そういうおごりのようなものがあったと思います。

はたして、今自分自身が父となり、父を超えることの困難さをひしひしと感じています。

まず、父がしたように息子が27歳まで生き続けるためには、私は後24年も生きなければなりません。これは、「後1週間も生きられないだろう」という気持ちにまでなった人間にとっては、気の遠くなるような長い時間です。

そして、もちろん父より長い間、息子を見守ったからと言って、父を超えたことになろうはずはありません。

飲んだくれである中でモラハラでロクでもない父親だったと私は思っていました。しかし、父は苦しんでいたのだろうと今では思います。苦しみ、苦しみ抜きながら、それでも子供たちのため、妻のため、死ぬより苦しい苦しみを、耐えて耐えて耐え抜いて生きて生きて行きぬいて、そして56歳で死んだのだと思うようになりました。

私は、とても恵まれているなと思います。それは、もはや天の巡り合わせであるとしか思えません。

しかしその恵みをもってしても、父を超えられるかどうかは、まだわかりません。
今できることは、父のしたように、苦しみも悲しみも耐えて生き抜くと言う、ただそれだけのことでしかありません。

今の自分には、自分自身が立派な人間であると言うような驕りは、大分少なくなりました。天の計らいにより、なくさしめられたと言った方が良いのかもしれませんが。

今の私には、立派になることよりももっと大事なことが、分かってしまったようです。