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隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

「差別」と「ダイバーシティ(多様性)」

例の乙武氏騒動でこんなコメントがあったそうです。

『車いすだったら先に連絡しなきゃ店に入れなくて当然』みたいな不平等を当然と肯定してしまう態度を差別という
一瞬、うなずいてしまいそうになりますね。

実際、このコメントに論理的な誤謬はほとんどありません。

しかし、上記のコメントは正鵠を射ているように見えて、重大な欠陥を持っています。それは「『差別・不平等はいけないこと』を大前提としているという点です。

逆に言うと、「差別・不平等はいけないことである」という事を立証できない限り、上記コメントは何の意味もなさないと言う事になります。

果たして、問答無用で「差別・不平等はいけない」のでしょうか?

まず、私の理解として世の中は平等ではありません。これはだれしもが了解してくれることだと思います。

お金持ちもおり、貧乏人もおり、男もおり、女もおり、子供もおり、健常者もおり、障害者もおります。

これら全部を平等にしてしまえば、差別(区別)もなくなることでしょう。しかし、そうなれば世の中はとてもつまらなくなってしまいます。最近では「ダイバーシティ(多様性)」の重要性がよく語られますが、平等幻想はそういった思想とは正反対です。

各自の能力の不平等を前提とした社会インフラの整備には、「差別だ!不平等だ!」という論調より、「ダイバーシティの認知向上」という論調の方が、適しているように思われます。

差別がいけないのではないのです。不平等がいけないのでもありません。多様性に対して狭量な社会より、寛大な社会の方がより多くの人にとって「生きやすい」という話なのです。

ただ、いくら寛大になったからって出来ないものはできません。たとえば、全盲の人にでも紙の本をすべて読めるようにしろ!と言われても無理です。せめて、出版社が点字本作成用のデータを公開するくらいが限界です。出版社がデータ提供を拒めば「差別だ!」という糾弾も正当性を帯びるでしょう。

ここで「差別」という言葉の解説を試みます。

私の理解では、差別と区別は、論理的にはまったく同じことを意味します。

ネガティブな意味で区別することを「差別」という、という理解です。

太田房江元大阪府知事が「あなたは女だから、知事といえども土俵には上がれません」

こういうのを「差別」というのでしょう。逆に、

「あなたは女だから、男湯には入れません」

というのだったら、多くの人は「区別」と思うのじゃないでしょうか。

世間的に当然な区別は「区別」で、当然ではない区別を「差別」というのでしょう。

このように、多様性(ダイバーシティ)の認知が高まる社会においては、当然に区別の機会が増えていきます。

男女差別だから日本の銭湯すべて混浴にしろなどというのは、暴論です。

『車いすだったら先に連絡しなきゃ店に入れなくて当然』とは私も思いません。

実際、入れる店も多いでしょう。でも、

『車いすでも連絡なしに日本中あらゆる店に何の困難もなく入れるようになって当然』とも私は到底思いません。

何より、その実現には計り知れない社会的コストがかかります。

この問題を論じた人はたくさんいますが、多くがあまりに大上段にすぎる意見に思えるのは、私だけでしょうか?