隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

理屈をこねまわさないと分かってもらえないようなことは、正しくない。

子宮頸がんワクチンによる突然死や、接種後の原因不明の体調不良(疼痛など)が社会問題となっています。

私は以前からこのワクチン接種が推進されることを危惧していたのですが、危惧していた通りの事態になったなと残念な思いでいます。

私は、女子中学生が死亡した時に思いました。そして何かでネットに発言しました。それにコメントが付いたのですが、一部には「ワクチン接種はごくごく一部に副作用を及ぼすかもしれないが、将来的な死亡率を下げる、『公衆健康』のために必要なものだ」と言うような主張が聞かれました。

私は、首をかしげざるを得ませんでした。
目の前で、年端もいかない女子中学生がなくなっている。原因はほぼ明らかにワクチンだ。これをおかしいと思うなという方が、おかしいと思うのは私だけでしょうか。

頭で考える前に、心が既に「これはアカン」と思っている状態です。そこに、いくら理詰めで言われても、ダメなものはダメだとわたしは主張したいのです。

これは、原発問題に対しても言えることです。原発を誘致する際、官僚はあの手この手で現地の主張や住民を懐柔するそうです。これに対して「これはアカン」で反対したのが和歌山県・和歌山大学の反原発グループたちです。

そして今、和歌山の海岸線沿いには、関電の執拗な誘致の圧力にもめげず、一点の原発すら存在しない、とてつもなく美しい状態が保たれています。

なぜ、原発が「アカン」のか。理屈をたれることももちろん可能でしょう。でも、その理屈をたれる前の段階のどこかに、「これはアカン」というのがあったはずです。だから、原発推進派の人は手を変え品を変え、東大から御用学者を呼んで講演させたり、おカネを配ったり、「以下に原発が安全か」ということをアピールしたり、しないといけなかったのです。

そういうようなことを見るにつけ、私は「あの手この手で理屈をこねまわして、やっとわかってもらえる(?)ようなことは正しくない」と最近では思うようになりました。

正しいことは正しいと感じるものです。「説得」したり「納得」したりするもんじゃないんです。

アインシュタインは、本当の真理は子どもでも簡単に理解可能なようなイメージで伝えられるものでなければならない、と考えていたそうです。なので、自分の作った難解な宇宙理論にも、どこか不満があったようです。

多数決じゃないんです。賛成者が多いほうが正しいということになるのは、議会だけです。個人間の議論、ネット上の議論では、賛同者が多いことが正しいなんてことは到底言えません。

今日ブックマークした興味深い記事があります。

生半端な知識や経験で作った独自理論を聞くのが結構好き - 情報学の情緒的な私試論β
自分が感じたことから、「けったいな」独自理論を私もよく展開します。
優等生「はてな村村民」にはまったく見向きもされません。

でも、自分が「正しい」って感じていればいいんだと、思います。

追記 2014/1/28 11:20頃
id:locast0138 「賛同者が多いことが正しいなんてことは到底言えません」:貴方には賛同者すらいませんなぁ。『自分が「正しい」って感じていればいい』:それを独善・妄想と呼ぶ。他人に理解されない正しさに何の意味があるのか。

「痛いところをさすってもらうと気持ち良い」。これは他人には理解されないことがあるんだけど、自分はさすってもらうと痛さが和らぐのだから、別に他人に理解されなくても、正しい。意味はある。わかるかなぁ。

id:kotetsu306 この人はアカン。理屈でなく心でそう思った

うまい事言ったつもり、ってやつですね。これが「揚げ足取りの巣窟」、村民ないし教団ないし帝国メンバーの浅知恵。そう思ってもいないのに、無理にそう書いているということが分かってしまいます。そういうものは「理屈でなく心で」とは言いません。