隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

1匹の羊と99匹の羊

私はアニメ「ひつじのショーン」が大好きなのですが、今回の話は「ひつじのショーン」とは全く関係ありません。

キリスト教の伝記(マタイ伝?ソースは良く知らない)にこういう話が出てきます。

キリスト「あなたに、100匹の羊がいたとしましょう」

キリスト「そして1匹の羊が群れからはぐれてしまったとしましょう」

キリスト「そして、必死こいて探して、ようやくその1匹と巡り合えたとしましょう」

キリスト「よく聞きなさい。あなたはその時、残りの99匹のことなんか忘れて、その1匹のために涙を流して喜ばないでおれるだろうか?」

・・・。

厳密にはだいぶ違う気がしますが、確かこんな話だった気がします。

私は、実はこのお話が大好きです。

99>1だから、99匹の方が大事だろう。

理屈ではその通りではあります。しかし感情はそうはいかないのです。

迷える1匹の方がかわいく感じられるのです。

このときキリストが言わんとしたことが、なんとなくですが私にはわかります。

この世にははてな村という村があります。

その村は、上のお話でいえば99匹の羊の人たちの集まりです。

なので、迷ってしまった羊の話をしても全く一つも喜ばれません。

99匹の羊は雄弁ですが、1匹の羊は寡黙です。

ネットで共感した記事が当ても、99匹の羊はすぐに共感したということを表す行動をとります(ブクマしたりイイねしたりリツイートしたり)。

でも、キリストも言う通り、1匹の羊のためにこそ涙を流すべきなのです。

マザーテレサも、同じような行動をとりました。

ほしいのは共感でも尊敬でもありません。

救いです。

その救いをむげに扱う輩には、今後も断固とした態度で接していきたいものです。