隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

「分かりやすいウソ」と「分かりにくい真実」

Twitterでちょっと見かけたのですが、「分かりやすく表現するために内容がウソになってしまってはどうにもならない」「分かりにくいと誰にも理解できないのだから表現すること自体に意味がない」と言ったことで議論になっていました。

なんだか哲学的な議論だな、と思いながら、自分なりの回答を考えてみたところ「人は自分の信じたいことを信じるゆえ、分かり廉かろうが分かりにくかろうが同じである」と言う結論に至りました。

暴論のようにも思えるかもしれませんが、日本語と言うベースで考えるからそうなるんです。たとえば、スワヒリ語と日本語とでも考えてみてください。

スワヒリ語で書かれた真実と日本語で書かれたウソ、どちらを信じるでしょうか?
というか、そもそもスワヒリ語で書かれた方は、意味がわからないゆえ正しいかどうかの判断すらつきません。
だから日本語を読める人には日本語で分かりやすく書くべきだ、と結論するつもりではありませんのでご注意をば。
言いたいのは、普遍的に誰にでも理解できる表現と言うものはこの世に存在しえないと言うことです。
もちろん、より多くの人に分かってもらいやすいと言う表現と言うものはあります。しかし、全員に分かってもらうことが不可能と言うこともまた事実です。
だから、自分が一番納得できる表現で表現すれば、それでいいんです。
それで理解しない人や叩く人がいたって、構わない、むしろそちらの方が望むところなんだと思います。

まー多分原発がらみのところからこんな議論が派生しているんだと思いますが、多分哲学的には考えつくされたテーマでおおむね結論が出ているんじゃないでしょうか?
と思いまして、拙筆を取った次第であります。