隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

論理性を求める心 人に強要する心

学校などで習う内容では論理を重んじます。論理(学)と言うのは物事を筋道だてて説明することです。
私も、論理(学)はとても大事なものだと思っています。
論理的思考能力と言うのはとても重要なものなので、これを熱心に勉強することはとてもいいことだと思います。

もう一方で、この論理(学)と言うものにフォーカスしている人に警告しておきたい事があります。それは、私自身もそうだったから言えることなのですが、論理と言うのは一つの思考ツールであり絶対的ルールではないと言うことを忘れないでほしい、ということです。

陳腐な例ですが、論理的に完璧に計算しつくされてこの映画は興行収入1兆円を超えるとオペレーションズリサーチなどの経営工学的手法を駆使して作成された映画があるとしましょう。でも多分、この映画は1兆円も売れません。

まあだからオペレーションズリサーチなんて学問はクソだなどと結論するつもりは毛頭なくて、要は論理(学)の失敗なんてものは歴史上枚挙に暇がないわけです。そして、その失敗はなぜ起こったかと言うと論理(学)を妄信する心が生み出したと言うことです。

論理(学)自体は完璧な学問でも、それを用いる人間自身が完璧でない以上、運用上論理学が完璧に成功することばかりとは限らないのです。また、完璧になろうとする努力も無用のものとまでは言いませんが、個人的には人間が完璧になることは不可能と思っています。

最初のパラメーターの設定を1%間違えただけでまるで違う結果が出るのが論理(学)であり、そうして出た結果の両方が「論理(学)により導き出された答え」なのです。さて、どちらが正しいのでしょうか?

結局、論理(学)と言うものを個人に適用した場合、それは一つの思考ツール、もっといえばおもちゃみたいなものと言えるでしょう。ナンプレとかテトリスとかも、多分そこから派生しています。

なので、私は「あなた自身」が思考するツールとして論理(学)を偏重することにはまったく異議はないのですが、「あなたが私の文章を読んだ結果、あなたが論理的ではないと思い、それを矯正することを強制される」事には正直不快感を感じます。

まあ、そんような指摘を平然とできる人は、何らかの偏った思考的性癖の持ち主ではないかと、私は邪推したりしてしまいます。

また、あまりこんなことを私はめったに書きませんが、私が「一見論理的に見えない事」を書いた場合、読み手に私が期待しているのは、「その奥」を覗いてみることです。

またもや陳腐な例で言うと、子供に指差して「アレを取ってきて」というと、指の差した先にあるものを取ってきてくれるものなのですが、ある種の子供は指した先ではなく「指そのもの」に注目してしまうそうです。

指そのものに注目するのはある意味とても論理的で、指の先にあるものを見ることの方が実は非論理的です。なので、この「ある種の子供」は一定の分野にフォーカスするととてつもない業績を残すことがあるそうです。エジソンやアインシュタインなんかはその一例だそうです。

でも、まあ一般的に公開されているブログなんですから、私としては指の指し方とか指の形に頓着されても困ってしまうわけで、そういう方向に議論を広げることも不可能ではありませんが、どちらかと言えば指した先の方を除く努力をして欲しいと思うわけなんであります。

そんなに大したことを書いているつもりはありませんが、私は自分の思いのままに綴っています。こういうところから、何らかの着想が得られる可能性もありますから、人を攻撃するなどと言うつまらない事にエネルギーを使うのではなく、もっとクリエイティブな方向に思考力を発揮してもらいたいと思います。