隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

【統合医療】吉村医院新生児死亡事故まとめ

以前、NATROM先生のブログ記事ケチをつけて、Twitterでの議論にまで発展して、結局のところ

・標準医療を黙々とこなすのが医師の仕事(=それが出来ている自分は並の医師)
・それが出来ないのはヤブ医者(=吉村医師はヤブ医者)
と言うのがNATROM先生の持論だと言うことが分かりました。

ヤブなら医師免許取り上げたらいいのにとは思いますが、まあそれは置いておいて。

自然分娩についても、必要なケースにおいては適切な医療介入が必要であると言うことです。

まあ、正論なのでなかなかいちゃもんのつけどころが無くて、じゃあ自分の子供に輸血が必要と言われたらサインするだろ!と詰め寄られたらハイそうですねとしか言いようがないし、実際妻の帝王切開の同意書にもサインしてたりするわけで(医師に高血圧で危ないと脅かされたので)、理屈では全然反論のしようがありません。

でも、人間の体と言うのはそもそも理屈じゃないわけで、適切な医療介入があっても死んだり障害が残ったりすることもあるわけだし、何事も100%なんてのはないんだと思うんですね。

NATROM先生の記事は「後出し」だから文字通り「葬式が終わって医者を呼ぶ」の状態なわけで、後からだったらなんとでも言えると思うんですね。だから、私のごとき医療素人にもケチをつけられてしまうわけで。

昔のことを持ち出してもいいのであれば、私の親戚には帝王切開時の輸血でC型肝炎になってしまった人もいます。「それでも母子ともに死ぬよりゃいいだろう!」と標準医療の医師は言うのでしょうが、それに対して冷たいものを感じるのは人の性として避けえないでしょう。

そういう医療事故とか医療ミスの堆積が人身に影響をもたらした結果自然分娩至上主義が生まれたのだとしたら?

自然分娩を推進する吉村医院を、大上段に見下しさげすむ行為が果たして医療の発展にどれほど寄与するのでしょうか?むしろ、カルト的な人気を後押ししかねないのではないだろうか?

いま、目の前この場で、自分の妻が「自然出産したい」と言い、医師に「危ないから辞めろ」と言われたときに、私はどう判断するでしょうか?正直、自分でもわかりません。前回は、医師の判断に任せましたが、実は産院内に2人の医師がいて、意見は分かれるようでした。結局、院長の判断に従った形です。

「次は吉村医院かな?」とか(遠いのであり得ない)、ギャグで言い合っていました。標準医療の病院では、帝王切開後の人は自然分娩させてくれないので。

その場その場、その時その時の判断の積み重ねが「人間」を形成しているのですから、過去の一場面を切り取ってそこだけ置き換えることなんて出来ないわけです。

なので、後悔と言うのは盗塁に失敗したランナーが「もう一歩速く走りだしていれば」と後悔するのに似ています。

10年前のあの日、喫茶店で、あなたがコーヒーに砂糖を入れなかったら、今はまるで違っていたかもしれないのです。

おそらく、NATROM先生の記事が吉村医院の話をご自身にとっての他山の石とするような論調で書かれていたならば、私にはわずかな反感も芽生えなかったでしょう。

ご自身が無謬で吉村医師がヤブと言うのは、どういう基準での判断なのか?そもそも、標準医療とは一体何なのか?最近、私は医療について考えていて、いったい「標準医療」と言うのは、あるいは「統合医療」よりもよくわからないのではないかと思い始めています。

相変わらず、私のポジションは「ノーポジ」です。