隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

無知の知

人類の歴史の中で「聖人」と称される人が4人いると言われています。

1人目はギリシャの哲人ソクラテス。

2人目は仏教の祖ゴータマ・シッダルタ(釈迦牟尼世尊)、いわゆるお釈迦様です。

3人目はご存じイエス・キリスト。

4人目がイスラム教の祖、預言者マホメット(英語読み)。

歴史上最初に登場した聖人がソクラテスです。

ソクラテスの言葉に「無知の知」と言うものがあります。「自分自身が無知であることを知っている人間は、自分自身が無知であることを知らない人間より賢い」と、ソクラテスは述べています。

仏教が好きな人であれば、親鸞上人の「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」と言う言葉を連想するかもしれません。

学問の祖と言われるソクラテス。その言葉には重みがあります。

そして、万有引力を発見したニュートンの言葉にこのようなものがあります。「我々は知識の大海の砂浜で遊んでいる子供にすぎない」。

「児戯に等しい」(子供の遊びみたいなものだ)と言う表現がありますが、我々凡人が何人束になってもかなわないような大発見をしたニュートンをして、自らの理論を「児戯に等しい」と言っています。

なぜ、無知であることを知っている人の方が賢いのでしょうか?

なぜ、ニュートンは自らの優れた理論を「児戯に等しい」と言うのでしょうか?

それは、対象が「宇宙」であり、無限の可能性をもつと言うこと。いま、自分たちが「知識」と称して築きあげたかに思っている「砂の城」が、いつでも海水にさらわれて無に帰す可能性があることを言っています。

だから、人間はいつまで経っても無知のままですし、海岸で遊んでいる子供に過ぎないのです。それはつまり、既存の理論の破壊と再構築を繰り返していく必要があることを意味します。

自ら作り上げた「砂の城」に固執してしまったとき、新しいものが創られることはなくなるでしょう。
科学万能の時代を通り過ぎた今だからこそ、科学者はこの「無知の知」を思い出す必要があるでしょう。