隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

【統合医療】前近代的医学(現代医療)の反省すべき点

私は、ツイッターで知らない人と話をしていて、前近代的医学(現代医療・西洋医学・正統医療なんでもいいんですが、普通に病院に行って受けられる医療のことを指して私は言っています)の無謬性を盲信している人が多いことに驚かされました。
というのは、私自身同じなのです。立場こそ逆ですが、最初病気になって「現代医療」の病院に行くのが当たり前と思って「現代医療」の病院に行き、ひとつも治らなかったり、薬の副作用に苦しめられたので「現代医療」に失望して「代替医療」に活路を求め、反現代医療を経て、でも代替医療でもキッチリとは治らなくて、また「現代医療」の病院に行き、割といい先生に出会い、そこで神田橋篠治先生の「精神科養生のコツ」という本を紹介されて読んで感銘を受け、現在の思想に至りました。

そして、「反○○」という態度は少なくとも「養生」という雰囲気になじまない、という先生の言葉に感銘を受け、現在では反現代医療でも代替医療擁護でも何でもない、一言で言うなら「統合医療派」の人間となりました。

ツイッターで私が衝撃を受けたのはは、以下のような言葉です。

  1. 薬効成分のないレメディ(ホメオパシーで飲む薬のようなもの)に、効果があるはずはない
  2. 二重盲検でプラシーボ(偽薬)と同等の効果しか認められないということは、効果がないということである
  3. 検査で効果が認められたものは、すでにすべて正規の医療(現代医療)に組み入れられている。組み入れられていないのは残りカスで何の価値もない

皆さんはどう思われますでしょうか。

1.に対して、私は「レメディ」というものの製造過程と、患者がどういう思いでそれを飲むのかということが無視されているな、と感じました。薬効成分がある=効果がある、というのは事実だと思いますが、「効果」=「治療効果」とは限りません。「副作用」という忌避すべきものもあります。また、二重盲検においても「副作用がある薬のほうが効いた気がする」という事実があることを、頭に置いておくべきと思います。
プラシーボ効果であっても、病気が治ったならそれは評価すべきで、薬効成分がない=副作用もないわけですから、そこに価値を見出すことはできないのだろうか、と思います。

2.に対して、上でも述べましたが「プラシーボと同等の効果がある」を私は前向きに考えます。私は、ときどき薬の副作用が嫌で、先生がこっそりプラシーボを出してくれないかなと思う時さえあります(自分自身がプラシーボと思って飲むと効果は下がります)。二重盲検は「医薬品の承認」(厚労省の後ろ盾をもらって大きな顔をして薬を販売できる=儲かる)が第一義になってしまってるようで、私には患者無視のように思えます。
「プラシーボでも効くと思って飲めば効く」というのは偽らざる真実です。しかし、普通の人はそれが「プラシーボ(小麦粉ないしは砂糖などを薬の形にしたもの)」と分かっていると効かなくなります。ならば、「レメディ」というものは「プラシーボ」を、本人が知っていても効くようにしたものと考えられるのではないかと思います。

3.に対しては、閉口しかないというのが私の感想です。
まず、実証医学は、原則として二重盲検(医師と患者、両方がその薬ないしは治療法が本物か偽物か知らない状態で、2組以上に実際に薬の投与や治療を行い、結果に有意差があるかどうかを検証する)では検査できない治療法というものが存在するためです。ですので、「エビデンスがないからそんなものは駄目だ」と言ってしまったら、そこで話が終わってしまいます。たとえば、整体とかはその代表例だと思います。神田橋先生もプロの整体師よりも整体ができるそうなんですが、整体は二重盲検ができません。「施術する側も受ける側も偽物と知らない状態で偽物の『整体』を施す」などというシチュエーションは、私には想像もつきません。
ですので、実証医学的には添付文書に「整体によって症状が著しく改善した例がある(二重盲検は不能)」などといったことを記していくのが良いと思います。

少なくとも「エビデンスがないから効果もなく、何の価値もない」といった主張には、あまり根拠を感じることができません。

あなたの体は世界に一つしかありません。その体を守るのはあなた自身の役目です。そのため、アンテナを広げていろいろな治療法を勉強していく必要があります。実証医学はその際の参考書として今後もっと拡充されていくべきものであり、少なくとも一部の人にとって都合の悪い治療法を「排斥」するためのものではないと、私は思います。