隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

哲学的思考訓練 - ヘーゲルの弁証法

私は哲学をちゃんと勉強した人間ではありませんが、そもそも哲学と言うのは人間の知的欲求のスタート地点のようなもので、わざわざ「勉強」するような代物ではありません。
ソクラテスとかプラトンとか、そのような人物の勉強をするのは「哲学史」の勉強であって哲学の勉強ではありません。逆説的には、人間が知的活動を行う背景には必ず哲学が存在すると言えます。

哲学と言うのは、科学の始祖ではありますがその性質として証明すると言うことができません。考え続けることが哲学であり答えが出ることはありません。しかし、答えが出ないからと考えることを放棄してはいけません。答えが出ないからと考えるのをやめることを「思考停止」と言いますが、最近では科学の発展が目覚ましく、一見科学はすべての難題に解答を与えるかのように感じられます。しかし、これは完全に誤解であり、完全な答えが得られると言うことは未来永劫ありません。にもかかわらず、一時的な科学の発展に目をくらまされ思考停止に陥っている人がいるように思います。

思考停止が問題なのは、一言でいうと「人間は考える葦」だからです。平たく言うと人間と言うのは「考えてナンボ」の存在なので、思考停止すると言うことは人間存在の価値を毀損する行為なのです。

この議論自体はかなり古い議論で、私が学生時代のころにはすでに取り沙汰されていたように覚えています。なので、私自身この問題は既に語りつくされ解決されたかに思っていたのですが、これは私が「思考停止」していたようです。最近、一連の感情的な「ホメオパシー否定論者」のコメント書き込みによって、この問題が全然解決していないと言うことを思い知らされました。

ここで、私は中学時代の社会科で習った「ヘーゲルの弁証法」を思い出しました。中学生の頃から理系人間だった私にとって社会科の勉強は大変つまらないものだったのですが、この「ヘーゲルの弁証法」だけは鮮明に覚えています。「なんでつまらないはずの社会科でこんなに面白いことを教えるのだろうか?」といったサプライズがあったのだろうと思います。

ヘーゲルの弁証法は、ある命題(テーゼ)に対して相反する命題(アンチテーゼ)を立てる、と言うところから始まります。

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面倒くさがりの私でも、さすがに図を書かないとこの説明は難しいです。
「ホメオパシーが無効である」を「テーゼ」として立てます。すると、「ホメオパシーは有効である」が「アンチテーゼ」となります。

これを多数決で賛成が多い方を正しいとするのが民主主義的な考え方ですが、ヘーゲルの弁証法ではこの両方(テーゼ・アンチテーゼ)の命題を否定せず肯定もせず、お互いに引き立てあいながら、より高次の結果を求めます。

この行為を「アウフヘーベン」といい、得られた結果を「ジンテーゼ」と言います。
もちろん、「ジンテーゼ」にも「アンチテーゼ」が生まれ、また「アウフヘーベン」と、永久に繰り返します。

これがヘーゲルの弁証法です。哲学の教科書などでは「テーゼ」に「蕾」、「アンチテーゼ」に「花」ときてジンテーゼが「実」とか、にわかには意味の分かり難いことが書かれていますが、ここで意味が大きいのは「ジンテーゼ」ではなく「アウフヘーベン」の方です。

上記の例ももちろん絶対的なものではなく、ただ単に私は「ホメオパシーは有効だ」「ホメオパシーは無効だ」「原発は危険だ」「原発は安全だ」というレベルで思考停止する人が多数派となることを危惧しているだけです。
このためには、「テーゼ」に対する「アンチテーゼ」の投げかけが、まずは第一段階として必要となります。また、この「アンチテーゼ」に対して、単純な反発を示す人は「アウフヘーベン」の態度が欠けていると言えます。
しかし、「アウフヘーベン」の態度を多くの人間が持てるようになるためにはどうすればよいのでしょうか?やはり、教育改革しかないのでしょうか?難しい課題です。

もともと「ホメオパシーは有効である」と私が言ったのは、こういう文脈で投げかけたアンチテーゼであったにすぎないのですが、「持論に反対の人間=敵」とすぐみなしてしまうような、論理でやりこめて相手を屈服させてしまおうと言うような、そういう人しか活発にコメントしてくれないと言う実証例になってしまったことは、私自身反省が必要だと思っています。

過去にホメオパシーに関するトラウマがあったのかもしれませんが、それに関しては聞かせてもらっていませんので全然分かりません。「母親がホメオパシーで殺された」とかいうような話なら、理解できますが・・・。

同じ人間・同じ時間軸を共有するはずの「仲間」である人間同士が、匿名と言うだけでここまで殺伐とした言論コミュニケーションしかできないと言うのは、とても残念な話です。彼は、もし私に面と向かってもあのような人格攻撃をするのでしょうか?もしそうなら、お近づきになりたくない人と言うことにしかならないのですが。