私は、すべての疾病に対して近代医療が「ベターな」治療選択肢であると言うのは、いわゆる刷り込みの類であって、事実ではないと考えています。
世の中には万を優に超えるという病気があると言うのに、そのすべてに対して必ずベターな治療を施すことができるなどと言うのは、ありえないことです。
また、近代医療は「生きるか死ぬか」と言うところに重きをおいて発展してきた西洋医学をベースにしているため、「生きるか死ぬか」以外のシチュエーションに対してはとても無頓着な面があります。これは、西洋医学が軍医学をベースにしているため、怪我や致死性の疾患をメインに研究してきたところに起因します。
ただ、それによって救われる人がいると言うのもまた事実です。交通事故で、動脈が切断されたりしたと言ったケースでは、近代医療以外にそれを救える医療は存在しないと言えるでしょう。
だから、私は近代医療を忌避しようとか否定しようとか、そういう向きもあまり好きにはなれません。もし、私の言説にそういうものを感じるのだとしたら、それは多分自分自身の無意識の罪悪感が私に投影された結果ではないかと思います。
私が祈っているのは「医療の発展」、つまり「統合医療の完成」なんですから、純粋に「医療の発展」を望んでいる人を否定するつもりは毛頭ありません。議論はしても「論争」をするつもりはありません。
たとえば映画「アバター」で、アバターはつまりアメリカ先住民族(インディアン)です。アメリカ人はインディアンを殲滅したことに対してどこか贖罪意識を感じていて、それが米国民の集合無意識となっているのでしょう。その補償のためにあのような映画を製作したのだと私は考えます。
同様に、本来学ぶべきところの多い民間療法や伝統療法といったものを蹂躙してきた罪の意識が、それを妄信的に否定したいという意識や、それを妄信的に信じてみたいと言う意識の表れになるのではないでしょうか。
どこか、やり残した感があるのではないでしょうか。もっと、やるべきことができるはずのことがあると感じているのではないでしょうか。
近代医療の無責任さは、そのやり残した感を省みないことです。その原因には、やはりお金と密接に結びついてしまったことの悪幣があるのだと考えざるを得ないでしょう。
省みるべきは自分の心の中です。
たとえば、学生の頃のテスト勉強でもテストに出る範囲しか勉強しない人がいます。それはもちろん、テスト対策としては合理的に見えます。しかし、テスト範囲には入らないけど、それと関連するエピソードなどを調べることで、より一層勉強がはかどると言う経験をしたことがある人は少なからずいるのではないでしょうか?
私は、単にそういう努力を「統合医療」という言葉で表しているにすぎません。
それに反発を覚えるのは、努力の方向性を誤っているからではないでしょうか?
私は、医療関係者ではありませんが、患者歴は長いです。法律がうるさいので無理でしょうが、医療コンサルタントになってもいいくらいの事は知っています。それこそ、医師側の視点では知りえない「患者側の視点」をもっていると言うのは、私にとっては医師に対する大きな強みです。
努力の方向性を見直してほしい、と言うことなのです。代替医療や統合医療を貶めることは、決して医療の進歩に寄与しないのです。
ただ、自分自身が「医療の本質」に近づく努力を地道にすることのみが、医療の進歩に寄与するのだと、それを感じて欲しいのです。