私が統合医療推進に対して、その「論敵」はかなり高い確率で、表題のようなことを言います。
「オマエのようなやつは、統合医療の側にとっても迷惑だろうぜ!」
はたして、実際には統合医療側とされる人から私は別に苦情を言われたことが無いのですが、統合医療側ですらない彼らになぜそのような事が言えるのは、疑問です。
統合医療が不要・ないしは有害と考えている陣営だと言うならば、私を擁護し囃したてればよいのではないでしょうか?
ここに、大きな自己矛盾が見え隠れします。つまり、そのようなことを本気で思っているわけではないのです。
不要なものに対して邪魔な存在ならばそれはそれでよいし、有害なものに対して邪魔な存在ならば称賛されるべき。でも、彼らは私を「攻撃」します。
それは「自分にとって有害」とみなしているからにほかなりません。
それが「医療利権にとって危険な存在」と言う認識なのか「無知蒙昧な患者にとって危険な存在」と言う認識なのかは分かりません。いずれにせよ、有害な存在であると思っているのでしょう。
まあ、今までの自分たちの認識における「統合医療」と言うものからずいぶんずれているように感じるので、一種の戸惑いのような感情もあるのでしょうか。それが、そのような矛盾した言動となって現れるのではないかと思います。
いずれにせよ自分自身の敵であると、そう認識していることに間違いはないでしょう。
しかし、私は彼らの敵ではないのです。そして、もちろんのこと統合医療「側」の味方でもありません。なぜなら、私はただの一患者だからです。
患者を敵と思う医師に医師の資格はないと思います。
「患者なら黙って治療されて感謝の一つもしてろ!」
という怒号が聞こえてきそうですね。
もちろん、私もちゃんと(自分の)医師に対する感謝の気持ちはあります。
でも、とても親切で勉強家の医師ですが、私の病気を治すことはできません。なぜなら、私の病気は私自身にしか治せないんですね。
外科手術でもそうなのですけど、千切れた指の神経を外科手術でくっつけたとしても、それは「神経と神経を近くに置いた」だけで「くっつけた」んではないんです。これらがくっつくには患者自身の再生力が必要となります。だから、神経切断後48時間経過すると、手術でくっつけても動くようにはならないのです。ま、これは神田橋先生のパクリなんですけど、医師と言うのは「患者の治る力を最大限引き出すのが仕事」と言うことです。
統合医療推進側の人たちにしてもそうでしょう。整体師の人にしてもそうでしょう。
だから、私の言説を迷惑と思う人が、医療そのものに対して迷惑な存在だと、そういう風に考えて欲しいものなのですね。
命のかかっている分野ですから、なかなか簡単に言えることではないのですけど、いろいろな試みがあっていいんじゃないでしょうか?
もちろん、患者のQoLを第一に考えて、不要な検査や治療はなるべくしないと言うのも、私の考える方向性の一つです。
終末期患者を、いかに苦しませずに死なせてやるかと言うような問題もあるでしょう。
自然分娩の満足感を、いかに母親に持たせてやれるかと言うような問題もあるでしょう。
どうも、近代医療の人の中には「母親の満足感ごとき、児の命に比べれば取るに足りないものだ」と考えている人がいるようですが、果たしてそうなのでしょうか?
そういったものをないがしろにしている医療は、近代医療だろうと統合医療だろうと、私は唾棄します。
生かせばそれでよい。そういう考え方で、胃ろうなどと言う不自然な手術を行っている医師もいます。その多くには、遺産問題が絡んでいたりします。
自分の親を介護せず病院や介護施設に放り込んでおいて、死んだら損害賠償を請求する人もいます。
それは、正しいのでしょうか?
このような諸問題は、「こころ」に対する取り組みをないがしろにしてきたツケだと考えるのは論理の飛躍でしょうか?
そして、こういった「近代医療」自体が持つ「からだ」と「こころ」に対する取り組みのいびつさを省みず、吉村医院のような取り組みを安易に非難し、一事が万事無知のせいであると言うのは、責任転嫁ではないかと思います。
全国の医師が、患者が、そしてすべての人が、この問題に対して正しい認識を持てるようになることが必要です。