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隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

科学は死んだのか?

放射「脳」関連で、「科学が死んだ」という議論が盛んになっています。この議論は、統合医療と無関係と言うこともなさそうなので、私も考えてみました。

ずいぶん昔「科学者」を志した身としては、科学に死んでもらうのは困るのですが、結論から言うと科学が死ぬことはありません。科学と言うのは、物理法則や人間の心理等のこの世のあらゆる事象を、論理科学的に取り扱う事を言います。ですので、たとえば重い石を持ち上げるのに「てこ」を用いたりそういう行為も広く「科学」の端緒であるわけで、人間存在があり続ける限り科学が死ぬことなどあり得ません。

まあ、昔ニーチェが「神は死んだ」というセンセーショナルなセリフを吐いたわけですが、それと似たような文脈で「科学は死んだ」と言っているのでしょう。神も科学も、同様に死ぬことはあり得ません。なぜならそれはどちらもただの「ことば」だからです。それをとらえる人間の考え方の変化を、そのような言葉で表していると言う文脈で考えるのが自然でしょう。

たとえば、小学校の理科の教科書には「てこの原理」と言うものが載っており、重いものをてこを使うと持ち上げることができる、と言うことが書かれています。

私が子供の時、父のドカタ仕事を手伝って、実際にてこを使ったことがあります。しかし、その使い方は実は教科書に書かれているのとは実は少し違ったのです。たとえば、重いものにあたる面は滑りやすくてはいけない、てこに用いる棒はそれなりに難くなくてはいけない、てこの支点にする台は曲面状の滑らかなものの方が良い、などなど、実際に使ってみると単純に教科書に書かれている通りにはいきません。

私が苦心惨憺していると、たぶん教科書で「てこの原理」なんかを習ったことはないか、もしくは忘れているだろう父が実際に「てこの原理」を使ってヒョウイと重い石を動かしていきます。父は、てこの原理を知らなくても、てこの原理を知っている私より上手にてこを使えたのです。

このとき「理科少年」を自認していた私としては妙な敗北感を覚えたものです。

この例は物理法則におけるものですが、心理学、人文科学などあらゆる領域の科学において「法則」がまずあって「現象」があるのではなく、「現象」がまずあって「法則」が後からでっち上げられるのです。

この「法則のでっち上げ」が「科学」です(○○学と言うものはすべてそうです)。そしてでっちあげられた法則を言語化したものが「知識」です。

「知識がなくても、実際にうまくできるならそれに越したことはないのではないか?科学なんて必要ないのではないか?」と思った人がもしいたら、それはとても良い着想です。実は、まったくその通りなのです。しかし、次の2つの理由により「法則のでっち上げ」=「科学」は必要であると、私は考えています。

1)知識の蓄積により、同じ発明を何度もする手間を省ける

2)知識の普及により、よりたくさんの人が「技」を発明した人と同じことができるようになる

この繰り返しにより、人間の知的労働力は省力化がどんどん進んでいき、余った知的労働力によりさらに高度な知識を産み出し、知的生産性はどんどん上がっていく、そういう前提に基づいて「科学」と言うものが推進されてきているわけです。

ただ、ここで言う「科学」と言うのはあくまで「方便」としての「科学」であると言うことは重要ですので、忘れない様にしてください。個々の事象にうまく対応できなければ科学の意味はありません。その場合は法則の見直しが必要です。

それを「科学」なんだから間違いない、とか言い出すのはもはや中世の「神」なんだから間違いない、と言う狂った宗教家と何ら変わりはありません。「神の名のもと」に十字軍が罪もない人を虐殺したり魔女狩りがなされたりと言ったことは、皆様もよくご存じのことだと思います。

「科学」の方が、より万人にとって便利で安全で確実であろうと言う、そいう言う前提で科学が推進されてきているのであって、白痴を相手に「科学が理解できないバカ」などと言うのはそもそも使い方からして間違えているわけです。真に発達した科学は、白痴に対してこそ意味深いものでなければなりません。

白痴をあざけり笑い見捨て殺すくらいの事なら、中世の「神」にでもできたことです。

そのような「科学」が跋扈するようになれば、庶民から取ってみればそれは「科学が死んだ」のと同じことではないでしょうか。いま、人々がオカルトを求める気持ちが、少しでも理解できればそのような事にはならないだろうと思うのです。