隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

論理の限界

さて、掲載されないとわかっているのに健気にツッコミをいれてくださる方に、せっかくなので記事を設けて少しだけお話をします。
ちなみに、いつもながらの与太話です。

これから書こうとしていることは論理の限界を超えたことなので、そもそも言語での表現は難しいというか不可能なので、できれば頭ではなく心で捉えるようお願いします。

私が書いているのはただのブログの記事で、論文ではありません。国際学会で論文を発表されたような方から見ればむずがゆいかもしれませんが、これはただの文章です。ですので、そもそも論理的無謬性を要求されないものです。

それに対して、論理的な誤り(と自分に思うもの)を見つけて鬼の首を取った気分になっていただくのは一向に構いませんが、それは私の心にあまり響きません。どちらかというと、あなたの一生懸命な態度が心に響くので、このように記事を設けて書かせていただいております。

そもそも、言葉というのはそれぞれが勝手な解釈をすることを許されているものですので、人の書いたものに対して批判をするというのは、割と大それたことです。相手が、私のように自分で筋は通ってないよな、と理解した上で書いている人間だとなおさらです。

どうも、ご自身が先生になったような気分で、私をでき悪い生徒のように思っておられる節がありますが、まあそれは当たらずとも遠からずだと思います。でも、アインシュタインやエジソンが小学校の先生からできの悪い生徒と思われていたというのもまた事実です。

ちょっと前にニュートリノ光速越えや不確定性原理の破れのニュースがありましたが、それに対して頭ごなしに教科書に書いてあることを理系の学生は信用するな、というコラムが書かれていました。まあ、その辺と言いたいことは大差ないと思っていいでしょう。

あなたの論理
「以前はインフルエンザによる死者が大量に出ていた」
⇒「最近では死者が減少した」
⇒「医療は効果があるのだ」

を見て、私は「我田引水」だなと思ったのですが、どうでしょう?
警察の

「以前は交通事故による死者が大量に出ていた」
⇒「最近では死者が減少した」
⇒「取り締まりは効果があるのだ」

という論理とそっくりではありませんか?

まあ、無論それを頭ごなしに間違っていると私には言えませんが、なんだかあまり納得は行きません。

論理だけで測れないものがあるということを念頭において、論理を「道具」として人類の進化向上に役立てるという姿勢であれば、私も賛同します。