隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

日本一残酷な授業

「カンブリア宮殿」という番組で、女子生徒が鶏(ヒヨコ)に名前をつけて育てたうえで殺して食べると言う授業をしていたそうです。それがネットニュースで話題になり、いろいろと物議を醸しています。

女子高生が鶏を育てて解体して食べる 「命の授業」は残酷か?
本来、このブログは「いまさら感」がウリなので、割とタイムリーなタイミングにあたるこの時期に記事を書くのは本意ではないのですが、この問題については昔から思う事がありますので、思わず書いてしまいます。

さて、これはニュース記者のキャプションがそもそもちょっとマヌケというか、本筋からずれています。かわいいヒヨコに名前をつけて育ませたうえで殺させる、これが残酷でなくていったい何だと言うのでしょうか。「命の授業は残酷か!?」などと言うキャプションは、あまりにも愚問に過ぎます。

第一、記事を読んでも分かる通り先生の真鍋公士教諭は残酷が云々、命の重さが云々、そんなことは一つも語っておられないのです(命の重さ云々言っているのは生徒の塚本さん)。記事にもある通り、「直接体験することでしか伝えられない教育がある、と確信している」からこそこのような授業を行っておられるのでしょう。

塚本さんは命の重さ云々とか言ってるあたりがまだちょっとわかって無い感があるけど、実際に体験したことがあると言うのは強くて、今後は別の卒業生のように安易に堕胎をしないような、生命倫理観を身につけることでしょう。

これは、日本人としていいことじゃないんでしょうか?いい教育じゃないんでしょうか?

にもかかわらず、残酷か残酷じゃないか、そんな議論がひしめいていて嘆かわしくなります。日本人は、こんなこともわからないほどに堕落してしまったのかと。

真鍋教諭も言っている通り「人間は残酷で、必ず食べなきゃ生きていけない」のです。ならば、その残酷さと向き合うか、それとも自分は残酷じゃないと装うのか。選択肢はそれだけです。

私は、食用の家畜を殺したことがありません。これは、私が死ぬまでに一度はしておかねばならないと思っていたことの一つです。肉を食う事は、それを殺すのと同義です。これに違和感を感じる人は、たとえばあなたの食事にコッソリ人肉が混ぜられていたとします。後でそのことを知らされます。当然あなたは何とも言えない「やってしまった感」に苛まれ、最悪の場合心を病むかも知れません。ではなぜ、「やってしまった感」を感じるのか。それは、殺したからでしょう。殺しに加担したと感じるからでしょう。

ではなぜ、鶏肉や豚肉、牛肉に同じことを感じないのでしょうか。そうです。殺したんですよあなたが。あなたのたった一つの命は、何千、何万という屍の上に成り立っているものだと言うことです。

仏教では、不殺生戒という戒律があります。「殺してはいけない」という意味です。もちろん、人間だけを、ではないですよ。あらゆる生命をです。しかし、生きていく以上不可能ではないでしょうか?そうです。不可能なんです。しかし、です。「自分は他生を殺さずには生きていられない罪深い(残酷な)生き物だ」と自覚し続けるために、そういう戒律があるわけです。

イスラム教が豚を食べないのも、ヒンズー教が牛を食べないのも、キリスト教が食事中に音を立ててはならないのも、すべて同じ理由です。

キリスト教が食事中に音を立ててはならないのは、動物は神が人間に食物として与えたものであるという考え方があるからです。だとすれば、動物より優れた人間は、動物がするように食事のときに音を立てないことによって、自分が神に近い存在であると言う事を示し、食べられる動物に引導を渡すのです。

神の絶対性を用いて自分の立場を絶対化してもいいです。仏教的には仏の慈悲の心で自分を逆に相対化します。

食に対するタブーに関して仏教はもうちょっと複雑で、「殺すときに声を出すものを食べてはいけない(宗派により異なる)」ということと「浄語」というマジックワードを利用することにより不殺生戒を回避して「殺さずに食べる」ことが可能となります。

この辺の細かい教義は、仏教が日本の国境となり神道とミックスされたりされる過程によってゆがめられたり「小乗仏教」と揶揄された過程で失われてしまっています。

この罪深さをすべてものすごく未来に登場する「阿弥陀仏」が帳消しにしてくれるからせいぜい阿弥陀様に祈りなはれ、というのが浄土宗・浄土真宗(門徒宗)です。(最初に神がすべての罪(原罪)を背負ってくれたとするキリスト教に対して、浄土宗では最後に阿弥陀仏がすべてを背負ってくれるわけですね)

いずれにせよ、人間存在そのものに対する「残酷さ」があり、それを超越するためにいろいろと皆さん考え、苦悩してきたわけです。

それが本来の人間のあり方であり、現在そのようなあり方が忘れ去られかけてしまっていると言う事に危惧を感じていたところへ、このような授業が行われているというニュースがあり、意外と捨てたものでもないなと思った次第です。