隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

【統合医療】「気休め」を悪い意味でとらえていませんか?

「気休め」と言うと、どちらかと言うとあまり良いイメージを表さないように、私自身感じています。

なので出来ればこれに変わる適当な用語があればよいなとは思うのですが、他に適当な用語もないのでこの用語を私はたまに用いますが、これは原則として良い意味で用いています。

たとえば、体が疲れたら体を休めると言うことは大変重要な事です。むしろ、これが究極と言ってもいいくらいの養生です。疲れた体は休める以外に回復させる手段がありません。

マンガ「MAJOR」の主人公茂野吾郎が高校時代にスランプ(伸び悩み)に陥る話がありました。
茂野吾朗は高校野球部員(ピッチャー)で、将来はメジャー入りを目指すアスリートです。
このとき、敏腕マネージャーが吾朗に「1日何があっても運動もトレーニングも禁止」という命令をします。
納得できない吾朗ですが、結局半強制的に1日休ませられます。

そして、回復した吾朗は以前をはるかに上回るボールを投げられるようになりました。
マネージャーは「休養は場合によってはトレーニング以上の効果を上げる」旨を説明します。

話がそれましたが、体を休めると言うことが疲れを癒す最善の方法であると言うことに、異論を唱える人はいないと思います。

同様に「気」が疲れたらどうしたらよいのでしょうか?「気」の疲れ・衰えを癒す最善の手段が私の言うところの「気休め」です。
「気休めなんて簡単にできる」

と思われる方もいるかもしれませんが、それは大変な誤解です。
もし可能であればMAJORの該当部分を読んでいただきたいのですが、茂野吾朗が「体休め」をするのに周りは大変な努力を強いられましたし、本人もかなりの(精神的な)努力を要しました。

一番の理由は、吾朗が「トレーニングし続けることのみがスランプから脱出する方法である」と思いこんでいたことです。

働き続けている「気」を休めるのは、思っているほど簡単な仕事ではないのです。どちらかと言うと「気」を休めず使い続けることの方が簡単です。

気を休めるには「気持ち」を変えて(「気」のベクトルを変えて)やる必要があります。

そして、自分の「気持ち」だけで自分の「気持ち」を変えられると考えている人は、自己認識が間違っている(なんらかの精神疾患)だと私は思っています。自分の気持ちは自分で簡単に変えられるものではないのです。他人の気持ちと同様、自分の気持ちも容易に変えられるものではないのです。

しかし、そう考えている人は少なくありませんので、落ち込むにはあたりません。今、この文章を読み続けているのであれば、あなたの変容への準備は整っていると考えていいと思います。

「気持ち」を変えて「気休め」する直接的な方向性として、「瞑想」というものがあります。
しかし、「瞑想」と言うのはやり方を教えて教えられる性質のものではありません。というか、私自身できません(練習くらいはしましたが)。凡人には難しいものがあると思います。

お手軽な方法としては「病院に行く」と言うものがあります。医師の権威によって、薬の効果によって、「気持ち」が変わることは間違いない事実だからです。

結果、「気休め」になり病気が治ると言うことは、少なからず認められる現象です。

しかし、この方法には欠点があります。「医師に治してもらった」「薬で治った」という認識が生じることです。自分自身で「気持ち」を変えて「気休め」したと言う自覚が生じにくいため(実際はそうなんですが)、「精神的免疫」が生じにくく、結果同じ病気に羅病しやすいと言うこともあります(「精神的免疫」は今考えた造語です)。
「うつ病」の再発率の高さは、これを物語っていると思います。

このために、「標準医療」以外の治療法がなくなると、人々の精神的安定性そのものに影響を及ぼします。「気休め」が出来なくなり、却って羅病率が上がる結果となります。

つまり、人は常に第2・第3の医療選択肢を求めているのです。この羅病原理・治療原理を理解しない人間は、代替医療の存在意義を理解できません。

そして、「標準医療」が進歩すればするほど、科学的になればなるほど、代替医療はそれに反する存在となっていかざるを得ません。
そうでなければ存在価値がないからです。

一つの会社で、たとえば液晶テレビばかりに偏った経営をしていると、「バランスを欠いている」と株主から批判を免れません。
医療についても、同じことが言えるのではないでしょうか。

すべては、「気休め」をいい意味でとらえるところから始まるのではないかと、私は思っています。