隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

死にたい人は死んでください

私もかつて(と言っても30くらい)に「自殺はやめましょう」と言ったコラムを書いたりしたことがあります。今思えば若かったなと思います。

今の私は、死にたい人は死んだらいいと思っています。
だって、「死にたい」んだから仕方がありません。本人が望んでいることを、たとえば周りの人間が「生きることには絶対の価値がある」とか「家族が悲しむ」と言って引きとめようとすることは、綺麗事と言うか悪ですらあると思います。

私の場合、死にたいと思ったことはなくて、辛すぎて死ぬしかないと思ったことがあるだけなので、本当に「死にたい」と思っている人がいるかどうかは知りません。

多分、私と同じで何らかの「生きにくさ」を感じていて、「違う世界に行きたい」と言う気持ちが「死にたい」という気持ちに置き換えられているのであって、本当の意味で「死にたい」ひとはいないと思うんですが。

ちょっと前に「若者が死にたがるのは社会のせいだ」みたいなコラムを読んだのですが、それはその通りでしょう。

原発の時にも似たようなことを書きましたが、楽しいゲームやおいしい食事や気持ち良いセックスを出来るのも社会のおかげなら、つらい思いをしたりひどい目にあわされたりするのもつまるところ「社会のせい」であることに疑いの余地はありません。

でも、それは最終的な「死にたい」の理由にはなりえません。結局のところ「生きにくさ」を感じている人は自殺に走りやすいと言うことなのでしょう。

それを、「ダメ、絶対」と止める権利は、一度でも死にたいと思った自分には無いと思いますし、多分他のどの人にも無いでしょう。多分、親や子供にすら。

死んだあと家族が悲しもうが、別の世界に行ってしまえば知った事ではありません。今、この世界に生きているから、死んだあと家族が悲しむと言うことが想像できるのであって、違う世界に行ってしまえばそんなことを思うことすらありません。

それを止める人は、その人の「生きにくさ」を解消してあげられるのでしょうか?その場しのぎの正義感を満足させるためだけに、そのような偽善を語っているにすぎないのではないでしょうか?

人は皆、自己実現のために生きています。そのために選んだ最後の方法が「自殺」であれば、誰にもそれを止める権利はないのです。

人の命は絶対的に価値のあるものではない。価値あるものとするためには、まずは自分の自己肯定、つまり「生きやすさ」を感じることが絶対条件です。

生きにくさを感じたことがない人間が、生きにくいと感じている人間に生命の倫理だのと言ったことを説教すると言うのは、無知なるものの驕りにすぎないのです。