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隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

【統合医療】過去の医療結果に対する批判は建設的か?

NATROM医師の書いたブログ記事で、吉村医院のお産について批判的な記事が書かれていました。

それに対して私は批判記事を書いたわけですが、そもそもこの批判の立脚点は「医師ともあろう者が、医療全体に対する俯瞰をもって認識せず、批判を行ってよいものか?」という、私自身の根源的な違和感でした。

専門知識を持ち、論理的に診断を下せると言うNATROM医師の、この批判に対する反応は論理的ではありませんでした。
しかし、議論を交わしたおかげで私は新しいテーゼにたどり着くことができました。それが表題です。

結論としては「過去の医療結果に対して批判」ではなく「過去の医療結果に対して反省」が正しい医師の対応ではないかと思います。

吉村医師の犯した間違い(NATROM医師が間違いと思っていることは事実)に対して、ではどうすれば改善できるのか、同じ医師の立場で考えるのが医師としての務めではないでしょうか。

その答えがブログでやり玉に挙げるというやり方だったのかもしれませんが、個人的にはこのアプローチは失敗だったと思います。その結果は、赤ちゃんの家族や関係者を傷つけただけだったと思っています。

吉村医師とNATROM医師では、見ているものが違うとも思います。

吉村医師は、患者(妊婦)の「思い」に重きを置いている。
NATROM医師は、患者の「体・生命」に重きを置いている。

端的に言ってしまうとこういうことであり、また後者が現代医療の一般的な医師の感覚であろうことには疑いの余地はないでしょう。

しかし、後者のアプローチだけでは救われない「思い」があることは疑いの余地がありません。「命があったんだからそれでいいと思え」と言うのは、それこそ詭弁です。やはり、前者的な(吉村医師的な)アプローチは、なければならないのです。

そして、それらが両立しないなら「命」を優先せよと言うのは、妥当なようで実は正しくありません。人間とは、そもそも自己満足で生きているものだからです。尊厳死の問題を持ち出すまでもなく、命よりも「思い」の方が大事な事はありうるのです。

NATROM医師にしてみれば、吉村医師は格好のいいことを言って実際にはまともな治療のできないヤブ医者、という見方かもしれませんが、吉村医師にしてみればNATROM医師は命しか救えず心を救えないヤブ医者、と思っているはずです(実際に命を救っているのかどうか、私は知りません)。

NATROM医師はこういうかもしれません。

「あなたは、赤ちゃんを自然分娩できない不具者だから、帝王切開しろ」

実際にはそう言っていなくても、母親にはそう聞こえていたかもしれません。私の、言葉にならない思いをくみ取ろうともしないNATROM医師との議論を経て、そう思います。もしそうなら、患者に対する説明が適切だったと言えるでしょうか。命を救えばそれでいい、思いなんて二の次。そう母親が感じた印象は、間違いなのでしょうか。

そう考えている母親が、運び込まれた近代医療の病院で「医師や看護師の目が死んでいる」と感じたとしても、不思議はないでしょう。それを目くじらを立てて「命を救ってくれた近代医療に対してケシカラン」などと論じることは、もし驕りでなければ無神経でしょう。

吉村医院に存在価値を与えているのは、むしろNATROM医師のような医師なのです。

命と思い、どちらが大事かと言うのは、一概には決められません。ただ、はっきり言えるのは対立は何も生み出さない、と言うことだけです。対象が「生命」である以上、対立は悪い結果しかもたらしません。

それをキッチリ考え続けるのが「良医」ではないかと、私は思います。