隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

【統合医療】NATROM氏のセルフパラドックス

一部では有名な内科医NATROM氏のブログ記事で、このようなものを見つけました。

信仰と狂気~吉村医院での幸せなお産
内容は、この記事が参照しているブログ記事「幸せなお産(元リンクは削除されています)」というものをベースにたどったもので、簡単に書くと出産前の診察で通常分娩は難しいと言われた妊婦が、自然分娩で有名な愛知の吉村医院を頼って行った。そして吉村医師に「自然分娩は可能」と言われた。臨月を1カ月過ぎて陣痛が起きたが、3日経っても産まれない。結局帝王切開の可能な「近代医療」の病院に搬送されて、赤ちゃんは無事生まれた。しかし、3日後に赤ちゃんは死んでしまった。

NATROM氏はこのように結論付けます。

・赤ちゃんを殺したのは吉村医師である。
・最初から近代医療に頼っていれば赤ちゃんが死ぬこともなかった。
私は相手が一般人であればこの見解に対し疑念を差し挟むことはしません。

しかし、NATROM氏は医師であり、そしてもっと重要な事にRCT(ランダム化比較試験)の推進者であります。RCTと言うのはつまるところ、いろいろなケースでいろいろな治療法を試して、統計処理を行ってからしか「確からしい」事を言ってはならない、と言うことです。

上記のケースにおいて、吉村医院に連れて行かなければ赤ちゃんは確実に助かった、と言えるでしょうか?

また、逆のパターンで吉村医院に行ったから助かった、標準医療の病院では死んでいたと言うケースも、可能性としては想定できます。

いつもの「漢方でもなんでもとにかくいろいろデータを取ってRCTしろ」と言った論調で行くならば、そういうものも全部ひっくるめてRCTしなければいけないと言うことになります。

しかし驚くべきことに、冒頭に引用したNATROM氏のエントリーを読む限り、そのような指摘を受ける可能性を考慮しているようには思えません。

つまり、彼の批判はいつも氏が批判している対象である統合医療なんかを推進する人たちとまったく同じスタンスにおいて行われているように、私には見えるのです。たった1例の症例を取り上げて、それを「だから近代医療は正しい」といった情報の刷り込みに利用しようとしているように、少なくとも私には読めます。

このブログ記事は心証を記載したもので論文ではない、と言った言い訳も可能でしょうが、近代医療は別物、という驕りを感じずにはいられません。

かなり控えめに言って、自分自身が属している「近代医療」と言うものに対する「贔屓」が垣間見えます。

そして、医学知識の乏しい私にもこれだけは断言できます。究極の医療とはそういう「驕り」とは正反対の方向に存在するものであると言うことを。

エホバの証人事件でも同じような議論がありましたけど、宗教的な気味悪さに対して「気味悪い」で片づけてしまう医師が、良医であるとは私には思えません。というのも、本来医師と言うのはその「気味悪さ」に対峙し得るものでなければならないからです。古来、お寺や教会で治療が行われてきましたが、その中には多分に「魔よけ」や「厄祓い」と言ったものが含まれていたはずです。

実直な精神科医や臨床心理士は、そういった「気味悪さ」と正面から対峙しなければなりません。場合によっては転移といった現象によって、自分自身が「憑依」されることすらあります。

人体を物質的なものと割り切る方便にも、一理はもちろんあります。しかし、人間の精神的側面を正面から受け止められない医師は、知識や技術があっても最終的に患者を助けられない事があります。

冒頭のケースに戻って言えば、最初に診察を下した医師が、患者の信用を得るに十分な医師でなかったので、患者は吉村医院に走ってしまったという見方もできるのではないでしょうか。

安心して身をゆだねられなかったのは、患者が「気味の悪い宗教じみたものを妄信していた」事だけが原因でしょうか?信頼に値する医師であれば、安心して身をゆだねたのではないでしょうか。

いま、全国的にオカルトへの興味が高まっています。それはなぜか、もうちょっと掘り下げるべきではないでしょうか。

同じ医者の立場であれば、ちゃんと患者を安心させ得なかった最初の医師を責め無いのは、「身内びいき」のそしりを免れないのではないでしょうか。「近代医療」の医師は諸手を挙げて擁護するのに、少しでもオカルト側に寄っているものについては寄ってたかって攻撃するという態度が、果たして医療の進歩にどれほど貢献するものなのか、疑問を感じざるを得ません。