隠すほどの爪なら無い

自分自身の、この自我というものが消滅することへの覚悟はできた。苦しみからの開放・・・。だけど、だけどあと少しだけ、続きが見たい…!

ホワイトバンドの功績

ホワイトバンドについては、主催者のページをご覧ください。これに対する反論についてはこちらのページをご覧ください。
私は、この「ホワイトバンド問題」を通して、一つの考察をするにいたりました。「偽善」というものについての考察です。私は、自分が大学生のころ書いた以下の駄文を思い出していました。

今日の朝、駅で赤い羽募金を募っていた。
私は例によって、募金をしなかった。
なぜしなかったのか。私は物心のつく前の、小学生までを除いては、募金はほとんどしたことがない。(状況に強要されたことはあるが。)
その理由は、ずっと分からなかった。子供の頃は、何も考えずに募金ができたし、深く考えもしなかった。でもだんだん、募金の後に残る感覚のなかに、気持ち悪い物が含まれるようになっていった。その感覚に苛(さいな)まれて、私は年を経るにつれて募金をしなくなっていったのだ。
気持ち悪さの原因は、最初は良くわからなかった。募金は良いことだと思っていたし、その効用を信じていなかった訳ではない。
でも、今日、その理由がはたとわかった。その気持ち悪さは、自分に対する嫌悪感であったのである。
例えば、私が百円募金する。すると、それが1万人集まって、百万円になると思うのだ。
私は百円しか募金していない。私のフトコロは百円どころか千円、いや壱万円募金したところで、たいして痛まない。明日からの生活に支障が出 るなどと言うことはあり得ないのだ。十万円したところで、命に関わるよ うなことにはならないだろう。
反して、募金を受ける人々は、苦しい立場に立たされている。私がいく ら高額の募金をしたところで彼等の苦しみをわかち合える訳ではないのだ。
なのに、私は「救ってやった」という気持ちになれる。自分のフトコロ は全く痛んでいないのに。言わば、私は高々百円の募金で百万円分の慢心を、苦しい立場の人々から搾取していたのだ。この気持ちが嫌悪感となって現れていたのである。私には、赤い羽がこの慢心の象徴に見えるのである。
繰り返し言うが、募金の効用はバカに出来ない。仮に百円の募金で、私 がどれだけ慢心を得たところで、苦しい立場の人々が百円分救われるとい う事実に変わりはない。完全に否定する気はさらさらない。
しかし、地球的規模で考えれば、現在のような募金システムがいつまでも続く訳がない。人々を救えるのは最終的には物資のみなのである。
そして、次代の募金システムの核となるべきものは、「救ってやろう」 という高尚な気持ちではなく、「苦しみをわかち合おう」という謙虚な気 持ちでなければならないという事だけは、確かなようである。

上の文章でも書いていますが、私は募金をしない人です。
その理由は「ケチだから」というのが一番の理由なのですが(笑)、もうひとつの理由として私は「偽善が嫌い」なのです。
偽善なら悪のほうがマシだ、というのが私の身上です。
上ではだらだらと書いていますが、要は「募金をするという行為によって、善を為したという感覚に酔いしれる自分」が気持ち悪いのです。
まず、「貧困」という言い方がおかしいのです。それは本来「貧富の差」と表現されるべきことなのです。
ゲームには必ず「勝ち負け」があります。
よく言われることですが、負けるチームがあるから勝つチームがある。
地球的規模で見た場合、局所的な貧困は、局所的な繁栄を支えるために発生しています。
したがって、その貧困をなくそうと思えば、別の場所の反映をある程度取り崩す必要があります。
この「取り崩す」というのは、100円200円の募金では話にならないのです。
もちろん、この問題がゼロサムゲーム(勝者と敗者の数が同じゲーム)である、という前提は間違っているかもしれません。
ですが、局所的な勝ち組と、局所的な負け組の格差はかなり大きいということだけは、言い切れます。
こんなたとえはどうでしょう。
猛烈に寒い場所にあなたともう一人が閉じ込められていました。
あなたは、偶然毛布を一枚発見しました。当然それにくるまります。
もう一人は、寒さで死にそうになっています。
毛布は、二人でかぶるとはみ出るほどの小ささです。
あなたは、どうするでしょうか・・・?
この問題に正解はありません。
二人で寒い思いをしながらかぶると思ったあなたは、優しい方ですね。
もう一人が寒さで死ぬまで独り占めするといったあなたも、私はおかしいと思いません。
ですが、「1cm四方だけ毛布を切り取り、それで相手を救ってやったと思う」というのはどうでしょうか?
おかしいと思うでしょう?
私は「募金」を同じ感覚に受け取ってしまいます。
考え方がおかしいとかたとえがおかしいと思われる方もいるでしょうが、真実の一面を言い当てているという確信が私にはあります。
自らの身を切らずして、貧困、ではなく「貧富の差」はなくせないと思うのです。
自分が手にしている豊かさを半分手放して、他人に与える覚悟があるかどうかなのだと思うのです。
そういう考え方の私ですから、ずっと「次代の募金システム」を探していたのかもしれません。
ホワイトバンドを見たとき、それにあたるのかな、という気持ちがよぎったのですね。
ホワイトバンドを買った皆さんも、買わなかった皆さんも、この機会に「貧富の差を埋めるには何が必要か」を考えるといいと思います。
それがホワイトバンドに費やされた、数億円ものお金を埋め合わせることを祈りつつ・・・。